【78】粟国島の戦争

 那覇から二時間のフェリーは、思いのほか揺れ、僕は少し船酔いしてしまった。着いたのは、粟国(あぐに)島。人口八百人の小さな島だ。

 最初に話を聞いたのが、安谷屋(あだにや)英子さん(一九三八年生まれ)だった。粟国島農漁村生活研究会加工部のメンバーとして、島の素材を活かした加工品づくりに取り組んでいる。

 「この島は水のない貧しい島だったのです。ソテツは貴重な食べ物でした。毎年九月五日がソテツの実を収穫してもよい解禁日でした。タンナージューシーと呼ばれるソテツのおかゆをよく食べました。ソテツは食べ物としてだけはなく、葉から根まで捨てるところがありません。葉は薪になり、倒して周りを削ったところは肥やしに、二番目に削ったところは豚の餌に、その中の芯はデンプンとして食べ物になりました」

 安谷屋さんは、五歳まで那覇に家族でいたという。「イクサ(戦争)が始まりそうだというので、島に戻ったのです」。その粟国島でも戦争が始まった、と安谷屋さんは話を続けた。「戦争中は、島のドウデラ(鍾乳洞の名前)に隠れて、水を飲んでしのでいました。(米軍の)上陸の時は、東海岸から戦車が上がってきて、こっちまで来ました。集落裏の畑では、戦車が通った後、小さいイモが転がっているんです。食べるものがないから、それをかじって食べました。あの戦争のことを思うと・・・」。

 粟国島で戦争があったことをうかつにも知らなかった僕は、少し驚き、あわてて資料を探した。粟国島の戦争について書かれた資料はたいへん少ないが、それらの資料によると、島にとっての戦争は、一九四五年三月の空襲(沖縄戦の開始とほぼ同時)、そして、同年六月九日の米軍上陸である。『粟国村誌』によると、三月の空襲で亡くなったのは十三名、六月の上陸時については「死傷者五六名」とあるが、正確な死者が何名かは、どうもはっきりしないようだ。

 粟国島の集落の一つ「浜」が作った字誌『字浜誌』には、住民たちの戦争体験が詳しく書かれていた(この字誌が、粟国島の戦争についていちばん詳しく書かれた資料だった)。埼玉在住の島出身者、安谷屋賢一さん(当時十歳)は、六月九日の米軍上陸当日、一族が三つのグループに分かれて逃げることになった様子を詳しく描いている。二つのグループは生き延びたが、別のグループで逃げた叔母とその子供たちを亡くした、という。そして、孫たちをかわいがっていた祖母は、そのショックから立ち直れないまま、その二ヶ月後、島の中に作られた収容所で亡くなった。

 粟国島に日本軍はいなかった。それなのに、沖縄戦の最中に米軍がこの島を攻撃・占領した理由はよく分からないままだ。島でのレーダー基地建設を目指して、ということではないかとも言われている。

 十分に掘り起こされていない戦争はいくらでもある。

 

(参考:『粟国村誌』、『字浜誌』、上原正稔「戦争を生き残った者の記録・第七話・敵のいない島の戦争-伊平屋、粟国島」『琉球新報』二〇〇六年九月連載。また、粟国の戦争を題材にした絵本に、永嶋マサ子『まゆみちゃんの叫び』がある)