フィールドワークな日々

 

「フィールドワークな日々」は、さっぽろ自由学校「遊」のニューズレター『ゆうひろば』に連載しているエッセイです。

 

 

 

 

2023年

4月

20日

【93】中頓別の生活史を聞く

昨年七月、道北の中頓別町で、学生たちと一緒に、高齢者の方々のお話を聞く機会を得た。九人の話し手は、昭和五年生まれの人が最年長で、最年少は昭和18年生まれだった。聞いたのは、それぞれが生きてきた歴史。そのインタビューをもとに、ただいま聞き書きの冊子を作成中だ。

 

話を聞いた一人、Mさん(女性)は、樺太(サハリン)生まれだった。ソ連との国境近くの敷香(しっか)という町で生まれ育った。十三歳のとき、ソ連侵攻を前に列車と船を乗り継いで北海道に引き揚げた。叔父さんがいた中頓別に住み着みつくことになったが、そこからずっと働きづめで、「貧乏のどん底」の生活を送らざるをえなかった。

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2022年

12月

16日

【92】森本孝さんの「あるくみるきく」生き方

二〇二二年二月二四日、ロシアがウクライナへの侵攻を始めた同じ日、私の大切な友人である森本孝(ふりがな・たかし)さん(一九四五年生まれ)が亡くなった。感情を大きく揺さぶられる日になった。

 

森本孝さんは、日本中の漁村を歩き、そして、書いた人だ。

 

日本中を歩いた民俗学者、宮本常一が一九六六年に立ち上げた「日本観光文化研究所」。立命館大学探検部出身の森本さんはそこに、誘われるまま二五歳のときに加わった。日本観光文化研究所は、宮本常一を慕う若い人たちが集まって、一人ひとりが日本中を歩く、という在野の研究所だった。そして彼らが書いた文章を載せた『あるくみるきく』という雑誌を発行した。旅費は出たが、給料は出なかった。

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2022年

10月

28日

【91】世界遺産の集落から

九月、三年ぶりに奄美大島へ行った。奄美は、徳之島、沖縄本島のやんばる、それに西表島と合わせて、昨年、世界自然遺産に登録された。

 

その世界自然遺産のエリアのすぐそばにある西仲間という集落に通い、継続して話を聞いている。今回は短い滞在だったけれど、六名の方に合計十四時間のとても濃密な聞き取りを行なうことができた。私たちが聞くのは、主にその人の生活史。中でも、地域の自然とのかかわり、それに生業だ。

 

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2022年

6月

25日

【90】ややこしい人たちと社会について

エリザベス・ストラウトのピューリッツァー賞受賞小説『オリーヴ・キタリッジの生活』(早川書房)には、米国の田舎町の、ごく普通の、とてもややこしい人たちが、数多く登場する。オリーブという元高校教師の主人公も、その中の一人として、皮肉屋で、強情で、しかし悲しみを背負った人生を送っている。そんな、なにかしらの困難と悲しみと喜びを背負った人びとが次々に登場し、複数の物語が紡がれるこの小説は、米国で広く人気を博した。

 

この小説に接したとき、最初、登場人物たちの「ややこしさ」「しょうもなさ」が、我が身を見せられるようで、読むのが少しつらかった。しかし読み進めるうちに、一人ひとりが、かけがえのない、いとおしいものとして読めてきた。

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2022年

3月

16日

【89】山鹿順子さんのこと

若いころに東京でお世話になった山鹿順子(ふりがな/やまかじゅんこ)さんが八五歳で亡くなってから、一年経つ。山鹿順子さんは、初期のころからアジア太平洋資料センター(PARC)にかかわっていた一人で、そののち翻訳会社「リングァ・ギルド」を立ち上げ、晩年は横須賀で反戦運動にかかわっていた、という人だ。

 

一九三五年に朝鮮半島で生まれた山鹿さんは、戦争が始まる前に日本に引揚げ、戦後、障害児の施設で働いた。一九六〇年代には、ソーシャルワーカーのための国際プログラムに参加するためアメリカに渡り、帰国後ベトナム反戦運動にかかわったあと、一九七一年に再び渡米して大学院で社会福祉を学ぶ。再び帰国したころ、生まれたばかりのアジア太平洋資料センター(PARC)にかかわりはじめた。さらに、漁民研究会、エビ研究会(鶴見良行さん、村井吉敬さんら)などにもかかわり、そして、僕が山鹿さんに出会う「自主講座」のメンバーでもあった。

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2021年

11月

17日

【88】学生たちの調査実習

九月下旬、学生たちを道北の中頓別町に連れていき、調査実習を実施した。毎年恒例の学生調査実習だが、昨年はコロナ禍で実施できず、今年も七月実施予定だったのを二回延期して、ようやく実施することができた。

 

調査実習って何をするの? 私のゼミの場合は、ほとんどがインタビュー。中頓別町では、三日間で十二組十八名の方にインタビューした。町役場職員、鹿肉加工業者、酪農家、コミュニティ銭湯経営者、まちづくり協議会メンバー、森林組合組合長、認定こども園園長、「自然学校」職員、元地域おこし協力隊の菓子店経営者など、多彩な人びとが相手だった。

 

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2021年

7月

07日

【87】スコットランドのコミュニティ政策に注目する

周知の通りスコットランドは、一九九九年以来自治政府をもち、議会をもっているが、その議会選挙がこの五月に行われた。スコットランド民族党(SNP)が今回もまた勝利し、公約通り二回目の独立の住民投票を行うことを宣言したことは、日本でも報道された。二〇一四年に行われた一回目の住民投票では独立賛成派が負けたが、その後イギリスのEU離脱を受け、もともと親EUのスコットランドでは、二回目の住民投票をという声が上がっていた。ちなみにスコットランド民族党は、北欧型の社会民主主義を目指す政党、ととりあえず言える。

 

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2021年

4月

22日

【86】大江正章さんのこと

昨年十二月、大江正章(ただあき)さんが肺がんで亡くなった。享年六十三。出版社コモンズの代表であり、アジア太平洋資料センター(PARC)の共同代表でもあった。

 

僕は一九九〇年ごろに大江さんに出会っている。しかし、学陽書房の編集者として大江さんが編集した本には、そのずっと前から馴染んでいた。僕のまわりでも、大江さんが編集した本に影響を受けた、という人は少なくない。

 

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2020年

12月

17日

【85】ライフストーリーの力

オーストリアの作家ローベルト・ゼーターラーの『ある一生』は、一九世紀末に生まれた主人公、アンドレアス・エッガーの一生を描いた物語。エッガーは、子どものころ養父からの体罰で片足を引きずるようになり、その後戦争、抑留、結婚と死別などを経験し、生涯の多くの時間を孤独の中で過ごす。とくにドラマチックなストーリー展開があるわけでもないこの小説は、しかし、深く心に染みる。「雪解けが始まるころ、(中略)岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初のあたたかな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったと感じるのだった」。

 

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2020年

10月

22日

【84】自分で調べる技術

岩波新書から出したばかりの『実践 自分で調べる技術』という本は、二〇〇四年に出した『自分で調べる技術』(岩波アクティブ新書)の全面改訂本だ。『自分で調べる技術』は、ずいぶん長い間読まれた本で、ぼくが出した本の中ではいちばん売れた本だ(他の本があまり売れなかっただけだけれど)。とはいえ、書かれている情報が古くなってしまい、改訂の必要に迫られていた。

 

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2020年

7月

23日

【83】近隣を歩く

四月から自宅勤務になり、授業も自宅からオンラインですることになった。家で仕事するのも、自宅からオンラインで授業するのも、やってみると悪くない。

 

しかし家にいると歩かなくなってしまうので、朝五千歩、夕方五千歩、合計一万歩のウォーキングをすることにした。

 

僕の家は札幌市の中央区と西区のちょうど境界にある。毎日少しずつルートを変えながら、このあたりを歩きつくすことになった。

 

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2020年

5月

24日

【82】あるカトリック・ファミリーの移住史(2)

僕の妻の祖先、滝下家は、隠れキリシタンとして、江戸後期に、長崎の外海(そとめ)地方から五島列島の中通(なかどおり)島・鯛ノ浦に移住し、そこで明治を迎えた。その一人、滝下精蔵は、明治初期、海に投げ入れられるやら、算木(四角い材木を並べたもの)にも乗せられるやら、ひどい拷問と弾圧を食らう。(と、ここまでは前号に書いた)

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2020年

3月

18日

【81】あるカトリック・ファミリーの移住史(1)

イワシから世界を見てみよう、とイワシを追いかけていたら、長崎のカトリック・コミュニティに出会った。

 

たとえば、イワシ漁や煮干し加工の中心地の一つである長崎県佐世保市神崎(こうざき)集落はほとんどの住民がカトリック信者だし、かつてイワシ産業の中心地の一つだった五島列島・中通島(なかどおりじま)も、イワシ漁にたずさわる漁師の多くがカトリック信者だった(鎌田慧「まき網盛衰史・長崎県奈良尾町」に、その様子が描かれている)。

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2019年

10月

31日

【80】民主主義としての「聞く」

 

 三十年くらいにわたる「研究」生活で、何をやって来たのかなあ、と考えたとき、自信をもって言える、というべきか、確実に言えることは、ずっと「聞く」ことをやってきたということだ。数えたことはないけど、延べ人数で言うと五百人は超えていると思う。

 こんなに人の人生を聞く人生になるとは思っても見なかった。それだけ続けてきたのは、ひとえに「聞く」ことのおもしろさであり、聞くことの「手応え」だ。

 自身が日々積み重ねるいとなみの中で、何か「手応え」のあるものを一つ挙げろと言われれば、それが「聞く」ことなのだ。 

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2019年

7月

01日

【79】イワシと特攻兵器とユリ

 イワシから世界が見えないか、と考え、あちこちのイワシ漁をめぐっている。

 三年前、長崎県雲仙市の南串山で、大きなイワシ漁を営む竹下康徳さんのおうちにうかがったとき、しかし最初にされたのは、戦争の話だった。

 「沖縄から来ていた金城さんという方が、他の予科練(海軍飛行予科練習生)の人たちと一緒に、うちに泊まっていました。私は小学校六年生でしたので、一緒の部屋で寝ていたのです」

 一緒に聞いた中に、私の元学生で沖縄出身の金城達也さんがいたので、竹下さんは、それでつい予科練の金城さんを思い出したのだった。

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2019年

5月

07日

【78】粟国島の戦争

 那覇から二時間のフェリーは、思いのほか揺れ、僕は少し船酔いしてしまった。着いたのは、粟国(あぐに)島。人口八百人の小さな島だ。

 最初に話を聞いたのが、安谷屋(あだにや)英子さん(一九三八年生まれ)だった。粟国島農漁村生活研究会加工部のメンバーとして、島の素材を活かした加工品づくりに取り組んでいる。

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2018年

12月

17日

【77】フェロー諸島の伝統捕鯨

 人類が最近になって住むようになった島というものがある。ハワイが紀元三〇〇年ごろ、イースター島が紀元一二〇〇年ごろ。そして、北大西洋の海にぽつんと浮かぶフェロー諸島が紀元四~六世紀ごろだと言われている。フェロー諸島は、イギリスとアイスランドのちょうど中間くらいに位置する。

 今年七月、そのフェロー諸島に降りたって、レンタカーを借りて島を走った僕は、木がまったくなく、ごつごつした、山がちで壮大な景観にまず感嘆した。

 フェロー諸島に移り住んだ人間たちは、氷河が形成したこの厳しい地形の中で、魚資源、鳥資源の利用、そして、羊飼いをうまく組み合わせた生活を作り上げてきた。二〇世紀に入るころから、商業漁業が盛んになった。現在も経済の中心は漁業で、サバやタラを獲り、輸出する。

 そんなフェロー諸島で、僕がいちばん感嘆したのが、伝統的な捕鯨だった。

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2018年

9月

06日

【76】スコットランドのコミュニティ再生可能エネルギー

 英国スコットランドの北部に、ディングウォールという小さな町がある。リチャード・ロケットさんの二〇〇ヘクタールにわたる農場は、その町はずれの丘に広がっている。そこに一本の風車が立っている。

 リチャードさんが風車を建てたのは二〇一四年。スコットランド最初のコミュニティ再生可能エネルギーと言われている。個人が建てる風力発電はそれまでにもあったが、コミュニティで出資しあって建てられたものとしてはスコットランドで初めてだった。

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2018年

6月

21日

【75】アバディーン

アバディーン、という町にこの四月から住んでいる。アバディーンがどこにあるかというと、イギリスの最北に近いあたり、つまりはスコットランドの北部。グラスゴー、エディンバラに次ぐスコットランド第三の都市だ。人口は二十三万人。

 

大学のサバティカル制度を利用し、ここに半年住むことになった。

 

もとより、アバディーンという町に強い関心があってきたわけではない。しかし、住んでいるのだから、自ずと興味がわく。この町はどこから出てきて、どういう歴史をたどり、どこへ向かうのだろうか。

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2018年

4月

11日

【74】済州島 四・三事件

三月、初めて済州島を訪れた。

 

済州島には、島出身の旧知の女性、Mさん(元北海道大学大学院生)が住んでいて、ユニークな活動をつづけているので、一度訪れたいと思っていた。彼女は、島のおばあちゃんたちの聞き書きを進めている。韓国のテレビ局KBSのローカル番組で、おばあちゃんを訪問して話を聞く番組ももっている。おばあちゃんたちから学び、社会を組み替えようとする彼女独自の活動だ。

 

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2017年

12月

07日

【73】アザラシによる漁業被害を聞く

この一年くらい、北海道の漁村を回ることが多くなった。

 

北海道の漁業は、大規模なものから小さな規模のものまで、地域によってさまざまだが、僕が回っているのは、比較的小さな規模の漁業が多いエリアだ。とくに日本海側の漁村を回っている。

 

きっかけは、ゴマフアザラシ。

 

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2017年

10月

04日

【72】地域の持続性をきめるもの

ずっとおつきあいしている宮城県石巻市の北上地区(旧北上町)。東日本大震災の大きな被害を受けたこの地区も、集団高台移転がほぼ完了を迎えつつある。震災から六年半。長かった復興の道のりが、とりあえず一段落だ。

 

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2017年

6月

22日

【71】国会図書館サーチ

国会図書館(東京都千代田区)を久しぶりに訪れた。東京に住んでいるころはよく行ったが、しばらく行っていなかったら、おしゃれで使いやすそうな図書館に変身していた。

 

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2017年

4月

28日

【70】合意形成とは- 『歩く、見る、聞く 人びとの自然再生』を書いたわけ

本を出したばかりなので、宣伝も兼ねてその話をさせていただこう。本の名前は『歩く、見る、聞く 人びとの自然再生』。岩波新書から出した。

 

僕の学問的な「専門」は、環境社会学というもので、環境について、あるいは環境問題について、社会的な側面から考える、とくにそこに生活している人びとの視点から考える、というものだ。そうした視点はとても大事だと考えているのだが、世の中で「環境社会学」の存在を知っている人は少ない。知ってほしい、という思いからこの本を書いた。

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2017年

2月

22日

【69】カムチャッカへの出稼ぎ

この連載で何度も登場している宮城の石巻市北上町。そのいちばん東の端の集落は小滝(こたき)という。四〇世帯ほどの小さな集落だ。少し高台に集落があって、そのため、東日本大震災でも幸いにほとんど被害を受けなかった(少し海岸近くにあった一軒は全壊)。

 

この集落に住む大正一五(一九二六)年生まれの遠藤栄吾さんは、震災前に何度かお話をうかがっていた。大正生まれの漁師さんだから、このあたりの海のことを熟知している。震災以降お会いする機会がなかったが、先日久しぶりにお会いした。

 

 

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2016年

8月

17日

【68】八重子おばあちゃんの日記

八重子おばあちゃんの日記、というブログがある(http://kuresakibunko.hateblo.jp/)。

 

誰かに教えられて最初このブログを見たとき、僕はびっくりした。一つは、この日記の主が自分がずっとかかわっている宮城の石巻市北上町の人だったことだが、もう一つは、この日記の記述がなぜか心ゆさぶられるものだったことだ。

 

日記の主、八重子は一九五二(昭和二七)年に亡くなっている。三三歳の若さだった。死因は出産。四人目の子供を産んだとき、出産事故で亡くなった。小指(こざし)という北上町の漁業集落でその生涯を過ごした。

 

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2016年

5月

30日

【67】小別沢の歴史

札幌市西区小別沢。大都市札幌の中で、ぽつんと存在する小さな農村だ。「遊」と縁が深い永田まさゆきさん・温子さん夫妻が農的生活を送っているところでもある。

 

僕はその永田さんとのつきあいで、小別沢にはよく行くのだが、そこにどんな人が住んでいるのか、実はよく知らなかった。 

 

その小別沢で農家のみなさんの聞き取りを学生たちと始めたら、これがおもしろい。へえ、と思うことだらけだった。 

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2016年

1月

21日

【66】母の戦争

私の母(八一歳)は、一九三四(昭和九)年一一月、愛媛県松山市の市街地に生まれた。家は下駄の製造卸を営んでいて、一時はたいへん繁盛していたという。

 

その母が一〇歳のときに、松山大空襲が起きている。一九四五(昭和二〇)年七月二六日、終戦の二〇日前である。

 

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2015年

11月

27日

【65】ルポルタージュを読む  

大学一年生向けの授業で、今年「ルポルタージュを読む」という授業を試みている。 

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2015年

9月

26日

【64】ローマ散策

家族でローマを旅した。

 

アパートメントの一室を一週間借り(ホテル検索サイトで見つけた)、地下鉄とバスを駆使して、ローマを歩き回った。 

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2015年

5月

29日

【63】奄美の塩づくりとソテツ再生

あちこち歩いていると、ときに「すごいなあ」という人に出会う。

 

三月に奄美大島で出会った和田昭穂(ふりがな/あきほ)さん(昭和七年生まれ。男性)は、まさにそんな一人。奄美生まれなのに大阪弁が混じる、その語りは、始まるとなかなか止まらない。 

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2015年

3月

27日

【62】イリコと瀬戸内海の島

瀬戸内海に浮かぶ伊吹島(ふりがな/いぶきじま)の海岸には、一七のイリコ工場がずらりと並ぶ。ちょっと壮観。

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2015年

1月

29日

【61】オーストラリアのソロモン人たち

エディに会いに、オーストラリアへ行った。ビクトリア州の北の端、オーストラリア全体の中では右の下の方の内陸、ミルデューラという町にエディはいた。

 

エディは僕がソロモン諸島でずっとお世話になっている友人。五年ほど前からオーストラリアに出稼ぎに来ている。 

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2014年

12月

26日

【60】カンボジアからタイへの出稼ぎ民たち

カンボジアの内陸、コンポントム州のある村。カンボジアはどこまでも平地がつづき、この村も見渡すかぎりの田んぼが広がる。畔に植えられているロンタール・ヤシとあいまって、美しい景観だ。しかし、田んぼの水は天水に頼っていて、乾期に作物はできない。

 

この九月、昔からの仲間と、タイの漁業をめぐる状況を調べに、カンボジアとタイを訪れた。 

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2014年

9月

25日

【59】石巻の復興とともに(その7)震災三年半の被災地

被災者の今の声を拾っていこうと一昨年から始めた夏の集中調査。今年も八月、石巻市北上町で三十名余ほどの人たちに話を聞いた。 

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2014年

7月

25日

【58】ブータンを歩いてみた

五月から六月にかけて、ブータンを訪れた。例の「国民総幸福量(GNH)」の王国だ。


国際民族生物学会という学会参加のための渡航だった。学会そのものも、世界各地の先住民族が多数参加するという楽しい学会だったが、やはりブータンという国に魅せられた二週間だった。約三千メートルの高地のため、最初はすぐに息切れしたが、そのうちに慣れた。国のすみずみまで英語が通じるにもびっくりした(小学校の授業は英語で行なわれている)。


ブータンは、落ち着きのある美しい国だった。


僕が滞在したのは、ブータン中部のブムタン地方。もともとは畑作地域で、ソバ、ジャガイモ、小麦、大麦、トウガラシ、リンゴ、そして酪農、馬産などが中心だが、近年「温暖化のせいで」(本当か?)稲作が可能になり、盛んに米が作られている。ブータンはヒマラヤの南部にあたり、平地が少なく、多くの畑は斜面にある。さまざまな畑と牧草地とがパッチワーク状に並び、ブータン様式の民家が点在するさまは、たいへん美しい。周辺の山はヒマラヤゴヨウというマツに覆われている。近年ではこのマツ山はコミュニティ・フォレストとして各集落の管理・利用にゆだねられている。


商品作物は、農家によって、牛乳やチーズだったり、ジャガイモだったり、トウガラシだったり。遠くまで売りに行く人もいれば(隣国インドまで売りに行くことも珍しくないようだ)、近くの市場で売る人もいるが、意外に近隣で個人的に売る(あるいは個人的に買いに来る人がいる)というのが多いようだ。


学会後のフィールドトリップで三六〇〇メートルの山のトレッキングに挑戦した僕は、そこでガイドのベマさんに会う。ベマさんは、農家だが、ときどきこうやってトレッキングのガイドをやっている。トレッキングの途中、ベマさんの家に寄ったが、ちょうど大きな牛舎を建設しているところだった。農業を少し拡張しながら、ときどきガイドもやって、生活を成り立たせていこうと考えている。たぶん、ブータンにはたくさんのベマさんがいるのだろう。これまでの生活を基盤に、時代に合わせて、ゆっくりと「発展」していこうという人びと。(それにしても、ベマさんの家もまた、他の多くのブータンの農家同様、ブータン様式の家で、たいへん大きい)


ところで、旅行前にいくつかのブータン本を読んだが、出色だったのは、やはりというべきか、意外にもと言うべきか、五五年前に書かれた中尾佐助『秘境ブータン』(岩波現代文庫)だった。そこで描かれているブータンの人と自然は、基本的に今もあまり変わることがない。違うのは、たくさんの「町」ができたことと、道路が整備されたこと。京都大学探検部出身の民族植物学者らしく、至るところに人と自然についての炯眼がちりばめられていて、ブータン滞在中もつねに参照しながら歩いた。こんな確かな目でブータンを歩けたら、もっと楽しいだろうに。


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2014年

5月

28日

【57】宇井純さんが遺した文章

三月、沖縄に行く機会があったので、前から行きたかった大里村(沖縄県南城市)・金城農産の汚水処理施設を訪れた。この施設は、宇井純さん(一九三二~二〇〇六年)が手がけた「沖縄型・回分式酸化溝」である。養豚の排水を安価な方法で効率よく処理し、その上ずみ液を肥料として畑で利用するしくみ。金城農産は現在養豚をやめているので、この汚水処理施設は隣の農家の養豚の汚水を処理している。上ずみ液は現在も金城農産で使っている。


知らない方のために復習すると、宇井純さんは、水俣病を始めとする多くの公害問題について、被害者・住民の立場に立ち、徹底した現場主義で調査研究し、発言し、また行動した人。東京大学助手時代の一九七〇年に開講して一五年間続けた自主講座「公害原論」は、当時、公害研究・反公害運動のネットワークの要として、各地の運動に大きな影響力をもった。


宇井さんは若いときに水俣病に出会い、その現実から出発して行動を始めた。晩年の二〇〇六年、自分の行動を振り返ってこう語っている。「現場主義ということでしょうね。しょっちゅう水俣に行き、そして患者に会い、患者の話を聞いて、自分の行動を選択してきた。あの患者を前にしたら、うそはつけないですよね」。


水俣病をめぐって御用学者たちがどうしようもない役割を演じているのを見て、宇井さんは既存の科学のあり方に痛烈な批判を加えた。「公正なる第三者、すなわち決して被害者の立場には立とうとしない人々に、水俣病の認識が根本的にできないことが明らかではないか。こんなわかり切った事実を前にして、それでもなお公正を口にしうる者があるならば、私はそれは人間とは思えない」(一九七二年)。「むしろ、素人のほうが正確な判断ができる。なまじ、玄人が、知識を振回しますと、知識がじゃまをして答えが出ないということがありますけれども、公害問題では、特に、被害者あるいは住民の常識が、一番正直な答えである、という場合がほとんどであります」(一九七三年)。


青少年向けに書いた『キミよ歩いて考えろ』(一九七九年)という本に宇井さんが書いた次の一見平易な文章に、僕は宇井さんの姿勢が深く刻まれていると思う。


「いまの教育では、あまり重視されていない、観察力が、これからは、たいせつになるだろう。自然と、社会のかすかなへんかも、みのがさない。観察力は、それをうけとめる感性と、ともに成長する。(中略)わかれ道は、感性の豊かさがあるか否か、他人のよろこびや、くるしみを、自分の身に感じ、じぶんのものと、できるかどうかにある。(中略)観察力をやしない、感性を豊かにするためにも、そして、それ以上に、じぶんの学問をひろげるためにも、まず、行動することが必要である」


そして、そうした行動を経て、宇井さんがたどりついた技術的解の一つが、冒頭の汚水処理施設だった(宇井さんはもともと化学研究者)。地域に根ざし、簡単な技術でできる施設。


二〇〇六年に宇井さんは亡くなったが、宇井純さんが遺した多くの文章がある。その一つ一つが、また読み返されるべき文章だと感じた僕は、宇井純著作集を企画した。宇井さんはあちこち新聞やらミニコミやらにたくさん書いていたので(数えると一一〇〇本!)、それらから一一八本を厳選し、それがようやくこの六月、『宇井純セレクション』全三巻として刊行されることになった。


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宇井純セレクション

第一巻 原点としての水俣病

第二巻 公害に第三者はない

第三巻 加害者からの出発

新泉社 各三〇二四円(税込) 

編=藤林泰・宮内泰介・友澤悠季

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2014年

3月

28日

【56】奄美の「遺産」

昨年一二月、奄美大島を初めて訪れた。


一二月八日、奄美市仲間集落(住用[ふりがな/すみよう]町)の公民館で、集まった六人のお年寄り(上は八六歳から下は七二歳)を囲んで、聞き取りが始まった。地元のNPO法人すみようヤムラランド(「ヤムラランド」は「やめられない」の意味)と鹿児島大学の岡野隆宏さんたちが連携して、地域の人びとと自然との関係を記録しようという会に、僕も聞き手として参加させてもらった。


「清い川と書いて「キョンコ」。小さい子どもたちは「ピョンコ」と呼んでます」

「キョンコ」とは、集落のすぐ横を流れる川の、少し深くなった部分の名称だ。

「小さいころは、大きい石からよく飛び込んだものです。ツワブキやタケノコのあく抜きもキョンコでやりました。籠に入れて浸しておいて、一晩置くとあくが抜けるのです。流れないようにまわりに石を置いてね」


一方、集落の前を流れる大きい川(住用川)では、アユ、カニ、エビなど、さまざまなものが獲れた。

「カニは、アネク(籠)に餌を入れて獲ります。川を仕切って真ん中に竹の籠を編んで置いて、みんなそこに入るしかない形にして獲っていました。しかし、今は、減少したリュウキュウアユの保全のために、それはしないで、ただ籠を川の底に沈めておいて獲ります。住用川のカニ(モクズガニ)は、入会権があるから、入札があります。九月九日に開票します。川を場所で区切って、一番(の区域)は誰々がいくら、二番は誰々がいくら、と五番まであります。入札したお金が部落のお金になります。今年の入札は一万円くらい。以前はもっと高かった」


聞いているうちにお年寄りたちの話はどんどん広がった。小動物の話、魚の話、お祭りの話、家畜の鳴き声の話、昔いくつもあった水車の話、サトウキビの話、そして奄美で「ケンムン」と呼ばれる妖怪の話。僕は話の豊富さに圧倒された。


奄美では世界遺産の話が進んでいる(奄美群島として二年後に世界自然遺産登録を目指している)。しかし、奄美がおもしろいのは、世界遺産にさきがけて、ローカル認証である「奄美遺産」が運動として進められてきたことだ。地域の人たちが大事に思っている「遺産」を自分たちで提案し、それを奄美遺産認定委員会が認定する、というプロセスを踏む。遺跡、建物、口承文化、料理、植物、祭りなど、何でもよい。誰でも提案できる。大事なことは、トップダウンでこれが「遺産」だと決めてしまうのではなく、自分たちで決めるということだ。提案の際の提案書には「その遺産が大事だと思う気持ち」「その遺産について提案者がどういう活動をするか」を書くことになっている。


これはいいモデルになるなあ。


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2014年

1月

30日

【55】本はどこへ行くのか

本はどこへ行くのだろう。


最近、電子書籍を読むことが多くなった。iPadで読んでいる。と言っても、まだ電子書籍の点数は多くないので、数で言うと紙媒体で読む方が多い。しかし、本は重たく、また、老眼の身には字が小さい。


実は僕が現在「読んで」いるもののほとんどは「本」ではなく、論文だったり資料だったりで、それらのほとんどはパソコンやiPadで読んでいる。iPadに論文も資料も全部ぶち込んでいれば、いつでもどこでも見ることができる。全部ぶち込むのはなかなか難しいけれど、多く本を読んできた人間はみな、iPadの中に自分の図書館を作りたい、それを持ってどこかに出かけたい、ときっと思うはずだ。


もちろん本の「モノ」としての魅力に替えがたいものがあることは異論なし。装幀とか、本の手触りとか、そういうモノとしての本ももちろん大好きだけれど、僕も含めて多くの読者にとっていちばんはやはり中身。もちろんその中身は、ただ文字が並んでいるという意味での中身ではなく、十分に編集されて美しく(物理的だろうと電子的だろうと)束ねられた作品としての「本」。


ああ、本の消費者って、ややこしいなあ。私たちが対価を払う本の「価値」は実に多面的。


内沼晋太郎さんの『本の逆襲』(朝日出版社、二〇一三年)という本は、自称「ブックコーディネーター」として、下北沢でビールが飲める本屋兼雑貨屋をやったり、本にかかわるイベントをやったりする中で、そういう本の多面性を生かせば、本のビジネスがまだまだ行けることを身を以て実証した本だ。出版業界は確かに斜陽かも知れないけど、読むという行為、さまざまな表現者による文章表現の世界はむしろとっても元気で、それがこの本のタイトル「本の逆襲」の意味。内沼さんが経営する本屋兼雑貨屋ではほぼ毎日作家などを招いてイベントを開いている(まるで「遊」ではないか)。


出版業界の友人たちに叱られながら、しかし便利なのでついアマゾンで買ってしまうのだけれど、内沼さんのお店のようなところだとつい足を運んでしまうだろうなあ。


本の市場規模は書籍のみでほぼ八〇〇〇億円(うち電子書籍の市場規模は約八%らしい)。雑誌を加えると約二兆円。規模のわりに、それにかかわる会社(出版社、印刷会社)は多く、そのほとんどは中小企業。個人経営も多い。その商品はどれもせいぜい一〇〇〇部とか二〇〇〇部という少量多品種の業界だ。それほど大きな規模の業界ではないが、しかし一方思い入れのある人、一家言ある人が多いという意味ではプロ野球以上かもしれない業界でもある。


本を読むのも面白いけど、本について考えるのもおもしろいぞ。


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2013年

11月

28日

【54】本をつくる

本をつくるという作業は一つではない。


今年は柄にもなく三冊も本を出したが、その作られ方は三者三様だった。


一冊目は『なぜ環境保全はうまくいかないのか』という本。新泉社という出版社から出してもらった。これは、ここ何年か仲間の研究者たち(環境社会学、民俗学、生態学などの人たち)と行っている研究の「成果」で、僕が編者になって一三名の研究者が書いた。文科省の科学研究費というお金(ほとんどの研究者はこの科学研究費というものを使って研究しています)を使って行ってきた共同研究だ。共同研究と言っても理系みたいに一緒に実験室にこもってとかはないので、それぞれが調査して考えた内容を研究会で議論しあい、アイデアを練り上げていく、という感じの「共同研究」だ。執筆者と僕と新泉社の編集者との三者の間で原稿が行きかい、侃々諤々しながら本ができていった。最初の人が原稿を出してから出版されるまで一年半かかった。しかし、そうした作り込みが功を奏したか、タイトルがよかったか、この手の本としては売れ行き好調。


二冊目は、「単著」(一人で書いた本をこう呼ぶ)の『グループディスカッション学ぶ社会学トレーニング』という本で三省堂から出した。こちらは、調査費ゼロ。長年僕が大学で行ってきたディスカッション主体の授業を誰でもできるように作った「ワークブック」だ。蓄積があるから簡単に作れると思いきや、実際の授業と本とではやはり違っていて、結構苦労した。目指したのは、実際の授業やワークショップで使ってもらえる実用書。


そして三冊目が『かつお節と日本人』(岩波新書)。これは藤林泰さんとの共著。藤林さんと僕は同じ「鶴見良行スクール」の人間で、長いつきあい。その藤林さんと始めたカツオ・かつお節研究会という民間の研究グループの成果を二〇〇四年に『カツオとかつお節の同時代史』(コモンズ)という形でまとめ、それをさらに追加調査して新書にまとめたのが今回の本。これは文字通り「共著」で、執筆分担をして、それぞれの原稿に手を入れ合った。共著というよりも合作。いくら長いつきあいとは言え、お互いの文体も違うし、何よりかつお節に見ているものも同じではない。それをたたかわせながら、ときにお互いに妥協しあいながら、合作していくという作業は、楽しい作業だった。藤子不二雄やエラリー・クイーンや岡嶋二人の合作はこのようなものだったか(いや、ちがうだろうが)。


本をつくるという作業は、楽しいぞ。


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2013年

9月

26日

【53】石巻の復興とともに(その6)進まない高台集団移転

復興とは巨大なしくみだ、と思う。僕らに見えているのは、そのごく一部。全体をちゃんと把握できているものは、たぶん誰もいない。


それでも基本は、被災者一人ひとりのリアリティ。そこから始めるしかないし、いつもそこに立ち戻る必要がある。


八月、石巻市北上町で、僕らは一年ぶりに集中聞き取り調査を行った。震災以来ずっと復興のお手伝いをしている地区だ。研究者・学生・復興応援隊の総勢一一名で、八月後半の九日間、手分けして三〇名近くの聞き取り調査を行った。


震災から二年半。住民たちの多くはまだ仮設住宅住まいだ。「何も進んでいない。一〇年後もこのまま仮設で暮らしているのではないかとさえ思ってしまう」(女性、三五歳)。そんな諦観のような雰囲気さえ漂っている。実際の仮設生活は、「顔を知っている人が多いから、和やかな雰囲気で過ごしています」(男性、六九歳)、「仮設にいたらお茶っこできます」(女性、七六歳)(「お茶っこ」とは、お茶を飲みながらの歓談)という面があるものの、一方で、「やはり息がつまる。家の中も暑い。子供が騒がしくすると近所が気になる」(男性、四一歳)、「不具合が出てきている。窓が開かなくなったし、お風呂の扉も取れてしまった。建物自体も傾いている」(女性、三五歳)という現状もある。早く出たい、というよりも、みんな早く自分の家に入りたいと思っている。


しかし、肝心の高台集団移転がなかなか進まない。住民の合意は早く進んだものの、そこから先が進まない。行政上の手続き、地権者との交渉など、いくつものハードルがある。少しずつは進んでいるのだが、それが住民たちには見えにくく、「せっかく早く合意したのに、何で工事が始まらないんだ」と多くの住民たちがいらだっている。住民の危惧は、早く進まないことだけでなく、早く進まないことで出て行く人が増えていることだ。「うちの集落では、当初集団移転に参加する予定だった人の二割ほどが、待ちきれずに外の地域で家を建てたりして、集団移転から抜けてしまった」(男性、四一歳)。「早くしないと心変わりしてもっと多くの人が出て行ってしまわないか心配」(男性、六三歳)。「自分の母ももう高齢だし、早くみんなで新しい家に住みたい」(男性、六三歳)。


このあたりは、簡単ではない。住民の合意には時間がかからざるをえないし、地権者との交渉はいつも簡単ではない。一方、住民の一人一人もそれぞれの事情をかかえている。住民も行政も、みな解けない方程式を解こうとしている。


「細かい内容でも良いから情報がもっと欲しい。進捗状況を伝えてほしい。同じ待つのでも違ってくる」(男性、七〇歳)。継続的に情報提供して、一人ひとり見通しが立てられるようにすること、が当面重要だろうか。


集団移転後のコミュニティのあり方も課題だ。北上町で九つの高台集団移転が計画されているが、そのほとんどが、元の集落そのままの構成ではなく、いくつかの集落から人が集まってくる形になっている。そうすると、これまでの集落での神社や祭りはどうなるのか。伝統的なしくみがたいへん大事な地区だけに、そこが課題となっている。これについては、さまざまな意見がある。元の集落の組織や行事はそのまま残そうという人、いや、新しいコミュニティでそれらは再編しようという人。「移転してからも、それぞれ以前所属していた集落のつながりはあると思うのでしばらくは様子を見た方がいい。いずれ話し合うべき問題点が出てくるだろうと思うので、その時に自然発生的に新しいコミュニティが生まれるだろう。無理に新しいコミュニティを作ろうとすると、きっとうまくいかないだろう」(男性、六八歳)、とある地域リーダーは語る。


震災の被災地全体で、現在集団移転が計画されているところが三〇七地区、そのうちすでに着工されているのは、三六パーセントにあたる一一一地区でしかない。北上町でも九地区の計画のうち、まだ三地区しか工事が始まっていない。


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2013年

7月

25日

【52】石巻の復興とともに(その5)神楽の復活

家族と一緒に石巻に出かけた。家族を連れて行くのは、震災後初めてだった。目的は五月四日の「大室南部神楽復活祭」に参加すること。


私たちが大室集落に到着したとき、復活祭はまだ始まっていなかったが、すでに多くの人が集まっていた。少し前まで主催者たちが、「どのくらい集まるだろうか」と不安がっていたのは、明らかに杞憂だった。復活祭の場所は、津波で流された集落跡。そこに国の支援で建てられた仮設の作業テント(養殖ワカメの作業などに普段は使われている)が会場だ。


大室集落はほぼすべての家が津波で流されてしまった。大室の人たちは現在仮設住宅などに住んでいる。避難所生活から仮設生活に移ったのが二〇一一年七月。高台集団移転の話し合いは進んで、元の集落近くに隣の集落と一緒に移転することが決まっている。元の集落近くの高台だ。しかし、なかなかそれは進まない。いつ自宅を建てることができるのか。


そんな中、集落の三十代を中心とする若手が、神楽の復活祭を準備した。彼らは、小学生のとき「子ども神楽」にいそしんだ世代だ。当時、子どもたちが言い出して、小学生十人で始めた子ども神楽。集落内の師匠、佐藤清次さんの指導を受けた。清次さんの自宅が稽古場だった。清次さんは今回の震災で亡くなった。


「実は震災前に、この世代で集まったときに、神楽もう一度やろうという話が出ていました」。復活祭の仕掛け人佐藤満利(みつとし)さんは言う。神楽はこの地区で十年くらい演じられていなかった。「震災後も神楽の復活はみんな心の中で思ってはいたんだけれど、誰も言い出せなくて。練習する場所もないし。高台移転が決まってからかなあ、とか。サリーが後押ししてくれたからだよ」。サリーとは、震災後この地区に入ったNPO法人パルシックの日方里砂さん(現在は復興応援隊)のこと。地域に入り込み、そのニーズを掘り起こしながら、現在まで復興支援の活動を続けている。その日方さんがうながしたことが、復活祭につながった。


今回、神楽の舞台は、今回岩手県一関市下大籠から借りた。大室の南部神楽は、もともとこの下大籠の津田清人という人物が大室に来て神楽を教えてことに始まる。その下大籠から今回舞台を借りることができたのだ。その他、助成や寄付など、多くの外部からの支援があって復活祭は成立した。


復活祭の演目がはじまり、やんやの喝采。日々練習を重ねてきた成果だ。集落の関係者、支援者、メディア、さまざまな人が集まり、屋台もいくつも出て、にぎわいを見せる。フェイスブックやラジオで宣伝したが、あとは口コミで集まった人たちだ。


この日は、復興を進める大室集落の人たちにとって、かけがえのない一日となった。


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2013年

5月

30日

【51】村井吉敬さんとの旅

村井吉敬さんと最初に出会ったのがいつだったか、はっきりとは思い出せない。大学三年か、四年か。いずれにしても三〇年以上前のこと。しかし、『小さな民からの発想――顔のない豊かさを問う』という村井さんの本が、当時の僕のお気に入りの本だったことは覚えている。この本は、インドネシア・西ジャワの話があると思えば、いつのまにか高知県西土佐村の話に切り替わり、その生き生きとした記述の中で、社会のあり方、開発のあり方が深く問われていく、そんな魅力的な本だった。


『小さな民からの発想』に感動した僕は、上智大学の村井ゼミにもぐりこませてもらった。本当に村井ゼミで勉強したかったのか、ただ女子学生の多い華やかなキャンパスにもぐりこみたかっただけなのか、今となっては記憶も定かでない。覚えているのは、当時上智大学の内外でアジアにかかわるさまざまな学生の活動が繰り広げられていて、そうした学生たちにとって村井さんはスターであり、庇護者でもあったことだ。


やがて僕は、鶴見良行さんに誘われてエビ研究会に加えてもらい、さらには当時僕が活動していた自主講座のつながりでも、村井さんといろいろ行動を共にすることになる。村井さんがODA批判の急先鋒に立ったとき、僕もオセアニアのODAを批判的に調べ、「同志」としての面目を保った。一九九一年には、ODAの現状を調べるため、村井さんと初めてのパプアニューギニアも歩いた。調査研究のやり方、運動のしかた、旅のしかた、どこをとっても村井さんは僕の偉大なロールモデルだった。


大学時代探検部に属していた村井さんは、旅する人だった。その旅のいくつかに僕も同行させてもらった。僕は旅慣れていない情けない学生だったから、村井さんやその仲間の人たちにいつも迷惑をかけていた。おもしろい旅はいくつもあったが、スマトラを何人かで一緒に旅したのは一九九〇年だったか。村井さんが日本から合流するのを待てず先に出発した僕らに、村井さんはある小さな町で追いついてきた。携帯電話なんかない時代だ。どうやって村井さんがそんな町で追いついて僕らを見つけたのだったか。今となってはそれも思い出せない。


一九八八年、チャーターした小さな船で東インドネシアを旅するという無茶な旅で、島に寄港するたび、村井さんは「隊長」としてそれぞれの地元の当局と交渉するというやっかいな仕事を行い、上陸すると、うっぷんを晴らすかのように、「同志」の新妻昭夫さんとともに、蝶々を追いかけていた。


民衆の足を使って旅する。そこから、伝えるべきことを見つけていく。そして必要ならばアクションを起こす。村井さんの流儀はずっと変わらなかった。


僕自身はいつのころからか、定点観測の方を重視するようになって旅は少なくなったが、村井さんは旅を続けた。晩年はインドネシアのパプア地域に入れ込み、そこを若い仲間と一緒に歩きつづけた。最後の本は『パプア――森と海と人びと』(めこん)だった。


村井さん、ありがとうございました。


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2013年

3月

28日

【50】スペイン・干潟の採貝漁業のルール

二月、スペインのガリシア州に行った。そこの研究者や漁業者がおもしろい動きをしている、ということで、視察と研究交流に仲間たちと訪れた(京都にある総合地球環境学研究所の研究プロジェクトです)。


ガリシア州全体が漁業の州で、その中心を担うのは、ヨーロッパ漁業の中心の一つでもあるヴィーゴという町。ちなみにガリシア州の言語は、本来スペイン語ではなく、ガリシア語(ガレゴ語とも。スペイン語よりポルトガル語に近いらしい)の土地で、あちこちにスペイン語と併用してガリシア語が書かれている(どっちがどっちか僕にはさっぱりわかりませんでしたが)。


ヴィーゴ大学の研究者に連れられて、僕らはカンバドスという町の干潟を訪れた。地図で見ると三〇〇ヘクタールくらいありそうな大きな干潟だ。ラムサール条約にも登録されている。そこで僕らが見たのは一〇〇人以上の女性たちがいっせいに貝を採っている姿。


ここで漁協のテクニカル・アシスタントをしているホセ・マリノさんによると、毎月一五日間くらいがこの採貝漁業の日になるらしい。いつそれを行うのかを決めているのはこの地区の漁協(ガンバドス漁協)の採貝部会のリーダーたち。採貝ができるのは、この採貝部会に加盟している人に限られる。現在二〇〇名余り。そしてその人たちは毎月三日間ある部会の共同作業に必ず参加しなければならない。共同作業の九五%以上にちゃんと参加していないと、翌年の採貝には参加できないという。なかなか厳しい。


一九九二年までこの採貝漁業は実質オープンアクセスだった(誰がどれだけ採ってもよかった)、一九九二年に部会ができ、ルールが決められた。


採れた貝は全量漁協を通して売られる。そういうしくみは、日本の漁村のやり方にとても近い。


ところで、僕らに話をしてくれたテクニカル・アシスタントのホセさんは、大学の博士号も持っている。博士論文のテーマは魚と重金属の関係だったという。ガリシア州では、各漁協にこうした専門家が配置されている。彼らの助言のもとで、各漁協は資源管理をしている。助言と言っても、一方向的に助言するのではなく、漁業者たち自身の知識も活用して、一緒に協議しながら決めていくようだ。


視察のあとヴィーゴ大学で開かれた研究会では、ホセさんら、漁協のテクニカル・アシスタントをしている人たちがたくさん集まってくれ、その現状や課題を率直に語ってくれた。その話はとてもおもしろくて、彼ら自身、自分たちの仕事は単に専門家としての仕事だけではないのではないかと考えている。日本で言えば「地域おこし協力隊」のような、いろいろなステークホルダーを結ぶ地域のコーディネータ的な役割を彼ら自身も認識している(あくまで漁業に限るのだが)。


スペインの漁村と日本の漁村の交流もおもしろそうだ。 


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2012年

12月

27日

【49】ドイツ:再生可能エネルギーと地域社会(その2)送電線を市民の手に

昨年九月のドイツ訪問のレポートのつづき。


ベルリンでとびきりおもしろいグループに出会った。協同組合「ベルリン市民エネルギー」(Bürger Energie Berlin)がそれ。事務所もおもしろいところにある。旧東ベルリン地区の元化学工場跡。現在、そこが集合住宅になっていて、社会的企業などさまざまな団体が集まっている。その一室が「ベルリン市民エネルギー」の事務所。


代表のペーター・マスロッホさんたちが私たちを歓迎してくれた。みんなボランティアだ。「「発電を市民が」から「送電を市民が」の段階に入っているのです。シェーナウ村(地域の送電網を大会社から買い取ったことで注目されているドイツ南部の村)がその先駆でした。二〇一一年一二月に設立した私たちの協同組合の目的は、ベルリンの配電網の営業許可を勝ち取ることです」。


ドイツでは、発送電分離が実現されているが、現在ベルリンの配電網を運営しているのはスウェーデンの大手電力会社。しかしその契約は二〇一四年に切れる。その先は営業権をめぐる入札によって決まる。


「入札は政治的に決まります。私たちの協同組合は現在次の契約を勝ち取るためにお金を集めているところです」。集めたお金は社会的企業への融資をする銀行として知られるGLS銀行の子会社GLS信託に預けている。契約を勝ち取るまではそれに手を付けず、もし勝ち取れなければそれらのお金は出資者に返還される。


ドイツでは、誰が送電線の営業権をもつかは、自治体が決める。そのため、マスロッホさんたちは、今後、州議会への働きかけなど、さまざまな政治的な動きをするつもりだ。


「私たちとしては、第一の目標は私たち自身が配電網を買い取ることです。次善の策としては、ベルリン州が買い取ることです。ベルリン州が買い取るための住民投票も考えています。ベルリン州が買い取る場合は、私たちとしてもその一部を出し、その経営に参加したいと考えています」


ベルリン市民エネルギーの目的は再生可能エネルギーそのものというより、経済の民主主義化だ。マスロッホさんは言う、「私たちの活動の目的は三つ。一つは経済を地域に戻すこと、二つ目は民主主義。だから私たちのグループは、出した金額にかかわらず一人一票が確保される協同組合という形を選びました。二〇一三年は総選挙がありますので、送電線の民主主義化について争点にしたいとも考えています。私たちの試みがもし失敗しても、これはパイオニアとして他地域に波及するはずです」。


本気である。


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2012年

10月

27日

【47】石巻の復興とともに(その4)

宮城県石巻市北上町にて、みんなで聞き取り調査をした。みんな、というのは学生を含む大学関係者、日本建築家協会の建築士たち、それにパルシック、FoE-JAPANというNGOとの協働。八月の二週間かけて、総勢約三〇名で、約六〇名の住民のみなさんの話を聞いた。


二通りの調査を並行して行った。一つは、津浪で流された元の集落を区長さんと一緒に歩きながら話を聞くという調査。もう一つは、仮設住宅などでじっくりお話をうかがうという調査。


なぜこんな調査を今ごろしたのか。


昨年から北上町の集団高台移転の合意形成についてお手伝いを続けてきた。ワークショップを開いて住民の思いを引き出し、そこから高台移転へ向けての準備をしていくというものだった。そこで浮かびあがってきたのは、一人ひとりの事情がある、一人ひとりの思いがある、という当たり前のことだった。それをもう少し掘り起こす必要がある、と感じていた。


ちょうど日本建築家協会のみなさんも、高台移転の図面を描く中で現地調査の必要性を感じていた。じゃあ一緒にやりましょう、ということで、この集中調査となった。


大きな被害に遭ったところだけでなくて、相対的に被害が少なかった集落も対象とした。なるべく女性にたくさんインタビューするようにした。若い人もなるべく多く対象にした。


つらい話もたくさん聞いた。家族を亡くした話。仮設住宅での生活の苦労。


楽しい話もいっぱい聞いた。元の集落でのお祭り。避難所での助け合い。


これからのことも本当にいろいろだった。北上町に残るという意思を示した人。北上町を出る決意をした人。残るかどうするかまだ迷っている人。「できればここに残りたいと思っているが、そうできない事情がある」と語ってくれた人もいる。契約講という地域の自治組織の解散を決めてしまった集落もある。今後の北上町について希望をもって語ってくれた人もいる。そこまで考えられないという人もいる。


僕らにとって厳しい話もたくさんあった。僕らがお手伝いしてきた高台集団移転がなかなか前に進んでいないことについて、多くの人たちがいらだちを感じていることがわかった。復興のスピードはやはり遅い。


ところで今回の調査は、大人数でやるたいへんさもいろいろあったが、大人数でしかできなかった。手分けしてインタビューし、それをなるべく早い段階でまとめる(日本建築家協会のみなさんは、地図にまとめていった。これはさすが)。それを調査にかかわっている人たちの間で共有する。それを二週間、濃密に繰り返した。


こんな調査、僕も初めてだった。


ここでわかった一人ひとりの思いを大事にした復興のあり方とはどういうものだろうか。それはなかなか難しいが、今回の調査の結果はさまざまに活かしていけるはずだ。


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2012年

8月

30日

【46】<ひだから>の聞き書き

初めて日高町千栄地区を訪れたのは二〇〇八年。山あいのその集落で住民のみなさんに最初聞いた話が本当におもしろく、これはもっと聞きたいと思った。縁あってその後この地区とお付き合いが始まる。


この地区の魅力はなんと言っても「人」。その人たちの魅力ある語りを残したいと思い、学生たちと聞き書き集に取り組んだ。その結果、『聞き書き・千栄に生きる』と題する六〇ページの冊子ができあがった。


矢野モモヨさん(昭和六年生)の語り。「私ね、一一歳の時に母を亡くしたの。中学校卒業してから岩倉木工所に仕事に行って働いたの。それから、他の兄弟たちと一緒に畑仕事もしたのよ。兄弟は昔から仲が良くて、よくみんなで川へ行って魚をつかんだね。糸にミミズを通して、川におろすと、カジカがたくさんついてくるから、それを捕まえて焼いて食べるの。キュウリもみなんかに使うとすっごくおいしいの。土用の丑の日は、数珠のようにミミズを糸につけてね、カジカがわあっと寄ってきたらそれをバケツへ入れてね、たくさん釣ったよ」


大正一三年生まれの山城二男(ふりがな・ふたお)さんは、農業をしながら林業にもたずさわってきた。「四〇歳くらいから岩倉って製材工場で土場巻きをやってくれって言われて。トラックで丸太が土場まで運ばれてきたら、丸太をトビを使って転がして、それを積むんです。そして、丸太の製材をするのに皮をむいて、レールに一本か二本積んで木工所の中まで運んでいく。春先はね、むきやすいんです。傷つけてやったら、ピローってむけて。だから、まさかり使って手でむくんです。あれはちょっと誰もかれも簡単にできない。ほんとのコツでやらなかったら、動かないんだよね」。林業はこの地の基幹産業だった。しかし現在日高町の林業は衰退した。


道垣内(ふりがな・どがいど)恭子さん(昭和六年生)は、子供のとき苦労している。「子どもの頃からいろいろしてみた。そのときの産業はほとんど農業と林業だね。だから、お父さんが林業に行ったら、お母さんと子ども同士で畑を作った。私六年生、一三歳の歳に、父親は怪我して仕事で右手をなくしたのさ。だから本当に二〇歳ぐらいまでは苦労した。父の片手として働いたのさ。長女だからね」。


みんなで苦労してきたそんな千栄地区の老人会は、現在とても活発。老人会の前会長・佐藤敬治さん(昭和三年生)、「千栄にはパークゴルフ場があって、そこで毎日年寄り集まって、一時間半くらいやって、帰ってきたら今度は草取りやったり、いろいろ農家の仕事してね。冬は百人一首やるんだ。林のばあさんっていうんだけどね、今は施設に入っちゃったけど九五歳になるばあさんが、それはそれは詠むのが上手でね。それを聞くのが楽しみなんだ。老人会の会員は五〇人くらいいてね。カラオケは毎週第一火曜日って決まってるの」。


苦労の話、楽しかった話、友だちの話、それらが全部千栄の歴史、日高の宝<ひだから>。道垣内さんはこう語ってくれた。「千栄以外に住んでみたいと思ったことない。やっぱりここが一番住みやすいような気がするね。隣近所みんな兄弟みたいなもんだし。不便でも何だかここが一番よかった気がするよ」


(『聞き書き・千栄に生きる』は、宮内泰介(miyauch@let.hokudai.ac.jp)まで)


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2012年

6月

25日

【45】大英博物館から

ロンドンの大英博物館を訪れた。


多くの観光客が集まるこの博物館には、イギリス人が世界中から力の限りを尽くして集めて(盗んで)きた数々の至宝が並べられている。もっとも世界中と言っても、中心はエジプトなどの中東。


近ごろの博物館は、系統だって何かがわかるような展示が主流だが、大英博物館は、展示物そのものの圧倒的な凄さを軸にディスプレイされている。なんといっても一つ一つの展示物が、その背景説明に莫大な時間がかかりそうな代物ばかりだから、そんなことをしていたら、展示スペースがいくらあっても足りないのは理解ができる。


Planet Under Pressureという、リオ+20(六月にブラジルで開かれる国連持続可能な開発会議)の前哨戦として開かれた科学者の会議に参加するために初めてロンドンを訪れた僕は、ついでとばかり、かねて行きたかった大英博物館を訪問した。今年の三月だ。


遠い昔のモノ群と向き合っていると、何でこんなものを作ったのか、なぜ人類はこんな文明を作りあげたのか、生活していた人たちは幸せだったのか、などなど、思索が楽しい。(そう言えば、池澤夏樹さんはここの展示を出発点に世界を歩き、『パレオマニア:大英博物館からの十三の旅』という魅力的な本を書いている。この本、とても好きだ)


何でこんなものを作ったのか、と感慨深く眺めた一つは、紀元前七世紀の中東の王国リディアが発明した「お金」。世界初の「お金」だ。その後世界を席巻し、今や地球を支配している「お金」というものは二六〇〇年前に今のトルコで生まれたのだった。このリディアの貨幣、今の貨幣とほぼ同じ大きさで、金と銀の合金でできている。ライオンや馬などが描かれたその文様はたいへん美しい。二六〇〇年前、リディアの人々は、このお金をどのように使いこなしたのだろうか、このお金に翻弄された人もやはりいたのだろうか。


一つ一つのモノが、さまざまな空想をさせてくれる。しかし、大英博物館を歩いていると、すぐわかることの一つは、戦争や権力を誇示する展示物がたいへん多いということだ。


パレスチナ南部の古代都市ラキシュをアッシリアが紀元前五八六年に軍事制圧したのを記念して作られた巨大なレリーフは、大英博物館の一部屋に収まりきらない大きさである。そこまで大きなものを作る必要があったのか、とも思えるぐらい。この大きさそのものも力の誇示なのかもしれない。この石でできたレリーフには、アッシリア兵が町を攻撃する様子、殺される人々、難民化するラキシュ住民たち、そしてアッシリア軍の勝利の行進、が生々しく描かれている。


そのほかにも、大英博物館は、戦争を讃えたり権力者の力を誇示したりする展示物にあふれている。ラキシュのレレリーフから二五〇〇年後の二〇世紀もまた、圧倒的な戦争の世紀であり、難民の世紀だった。それは二一世紀も続いている。戦争はやはり人類の性なのか。それはいつ始まり、いつ終わるのか。


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2012年

4月

28日

【44】石巻の復興とともに(その3)


石巻通いが続いている。一ヶ月に一度くらいのペースで石巻市北上町に出かけ、現地で活動するNPO法人パルシックの事務所(元民宿を借り切っている)に寝泊まりさせてもらい、主に集団高台移転のお手伝いをしている。何人かの学生・院生も一緒。


集団高台移転は国の制度の枠組みで行われるもので、集落内の合意形成が重要になってくる。合意形成そのものの難しさもあるが、さらに、国の制度はもちろん万能ではないので、住民たちの実情とそぐわないところがある。そのあたりを行政も含めて話し合い、うまい解決がないかどうか、行政にも考えてもらう。実際いくつかの点では、行政側がいい案を出してきてくれ、問題がクリアできた。


合意形成には主に三段階くらいあり、まず、集落として元の海岸沿いの土地には住まないことを合意する段階。次に誰が集団移転に参加するか、また、どこに集団移転するか、ということについての合意。最後に、移転地のデザインについての合意。北上町では、すでにいくつかの集落で最後の移転地のデザインについての話し合いの段階に入っており、これは全国的にも早い方だ。


決してスムーズとは言えないが、何とかここまで来たのにはいくつかの原因がある。


一つは、Kさんという行政マンの存在。北上町役場が津波で破壊され、多くの職員が亡くなる中、奇跡的に助かったKさんは、現在復興関係の仕事を一手に担っている。Kさんは、住民の立場に立った復興を考えており、僕ら外部の者との連携も重視する。得がたい人材だ。


今回の高台移転事業は、さらに日本建築家協会宮城地域会の人たちとの協働でもある。日本建築家協会とは建築家たちの全国組織。その宮城地域会の人たちが震災以降ずっと、被災地との連携を模索していて、僕らよりも先に北上町で集団高台移転にかかわっていた。Kさんの仲立ちで建築家のみなさんと僕らは出会い、協働が始まった。協働には信頼関係が必須。僕らは、Kさんとは震災前から懇意していたし、また、日本建築家協会の建築家のみなさんとはすぐ信頼関係が結べた。


そして、この地域の集団高台移転が比較的進んでいる最後の原因は、なんと言っても、この地域のコミュニティとしての底力。A集落のEさんはこう話してくれた。「避難所のときのこの集落の団結力はすごかった。若者は若者で消防団として一致団結して動き、女性たちは女性たちでどんどん避難所を運営していった」。


集落ごとの話し合いに参加していると、おもしろいことに、合意形成の流儀が集落によって微妙に違うことに気がつく。お互い探り合いながらゆっくりと合意形成していく集落、がんがん言い合う集落、リーダーのリーダーシップのもと早く合意形成していく集落など、それぞれの流儀がある。しかし流儀こそ違え、地域での話し合いの素地を十分もっていることは共通した特徴。そのコミュニティ力が復興へ向けた動きを支えている。


僕の見るところ、今の課題は二点。集団高台移転を含め、地域の中では復興へ向けてさまざまな動きがあるが、それらを横につなぎ、また、行政・支援者などをつなぐコーディネーターの存在。幸い北上町では、パルシックが少しそうした役割を果たしつつあるし、また、地域の若い女性グループもこれからその役割を担おうとしている。もう一点は、僕ら自身の課題だが、地域全体の細かな声や思いを拾いきれていないこと。今こそ「小さな社会を掘り起こす」ことが大事なのだが、十分にそれができていない。それが四月以降の僕らの役割の一つだと思っている。


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2012年

2月

27日

【43】台湾先住民族瞥見

さっぽろ自由学校「遊」はずっと台湾とのお付き合いがあるのに、僕は台湾へ行ったことがなかった。台中にある中興大学で開かれた自然環境にかかわる研究ワークショップに招かれ、昨年11月、初めて台湾に足を踏み入れることになった。


ワークショップのあと、静宜大学南島民族研究センターの林 益仁さんが、先住民族の村に車で連れて行ってくれることになった。林さんはワークショップで「欅木事件」という事件の報告をしていた。この事件、国有林の倒木を持ち帰った先住民(スマングス)が盗伐で逮捕され、裁判闘争の結果無罪を勝ち取った話。日本の小繋事件を思わせる。ただし「欅木事件」はごく最近の事件。


林さんが連れて行ってくれたのは、清流という村。日本統治時代の名前は川中島。三本の川に挟まれているからその名がついた。先住民族の言葉ではグルーハン。「清流」は中華民国が与えた名前。ここは霧社事件後、生き残った先住民族が集められて移住させられた村だ。霧社事件とは、一九三〇年に先住民族セデックが日本に対して仕掛けた蜂起。日本側は徹底弾圧し、セデックの七〇〇人ほどが死亡ないし自殺したと言われる(自殺がたいへん多かった)。


ちょうど台湾で霧社事件を扱うハリウッドばりの映画「セデック・バレ」がヒットしていて、この清流もにわかに観光地化していた。私たちが訪れている間にも、観光客を乗せたバスが何台も着いた。


清流で出会った先住民族のKさんに話を聞く。Kさんの祖父が二四歳、祖母が二一歳の時に霧社事件があり、祖父と祖母は事件後ここ「川中島」に移住させられ、そこで知り合って結婚した。邱さんが霧社事件について知ったのは祖父祖母や親からではなく、大学生になってからだった。祖父、祖母は80歳を越えてから事件についてようやくほんの少しだけ話してくれたという。


旅には、霧社近くの村出身の先住民族のIさんが同行してくれた。その村でIさんのお母さんにお会いすると、八一歳のお母さんはていねいな日本語で応対してくれた。お母さんは、本来の名前と日本名と中国名の三つをもつ。Iさんたちは、政府の補助で昔の住居を復元している。地面を掘って木と石で作った家。屋根はススキ。隣に雑穀の倉庫。こちらは高床式。復元には、老人たちの記憶と、戦前の日本人による研究が使われたという。


ホテルに帰って僕は「原住民族電視台」というTVチャンネルを見る。台湾で二〇〇五年から始まった先住民族専門チャンネルだ。言葉は中国語と先住民族の諸語。ニュースや芸能が織り交ぜられ、言葉が分からない僕にもおもしろい。ちなみに隣のチャンネルは「客家TV」だった。


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2011年

12月

25日

【42】石巻の復興とともに(その2)

被災にあった宮城県北上町(現石巻市)。10月から11月にかけて2週間ほど滞在している間に、被災者のみなさんのいろいろな話を聞くことになった。すさまじい被災体験から、ちょっと笑える話まで。ある被災者夫婦は、ひとしきり被災後の体験を語ったあと、「夢を見ているよう」と言った。家ごと流されて奇跡的に助かったある被災者は「人の絆を本当に感じたね、今回は」と語った。話の聞くたびに、僕を言葉をつまらせる。


そんな中、僕らはこの地区の復興のお手伝いに少しだけ乗り出すことになった。そういう場を与えられたことにまず感謝。


僕らの役割は、この地域の集団高台移転の合意形成の側面支援。津波で家をなくしてしまった人たちが、集落ごとに集団で高台に移転する、そのお手伝いだ。北上町では、多くの人が集団高台移転を望んでいる。国の制度としては「防災集団移転促進事業」および「災害公営住宅事業」というものがあり、石巻市としてはこれを利用して高台移転を進めようとしている。そのときに大事になってくるのが、集落ごとの合意形成。みんなが集団移転に参加する必要はないが、集落としてこの集団移転に参加するという意思表示が必要になってくる。


ということで、集落ごとの話し合いを始めた。ワークショップの手法を少しだけ取り入れながら、なるべくみんなに発言してもらうように工夫した。議論は当然あちこちする。行政に説明を求めたり要望したり、一方住民同士で話し合いが始まったり。あちこちする話を何とか方向づけ、出た話はすべてアシスタントの学生が付箋紙にまとめていく。


話の中で僕らが少しびっくりしたのは、住民のみなさんが「コミュニティ」というカタカナ言葉を連発すること。「コミュニティが大事」「ここのコミュニティを再現したい」。「コミュニティ」はカタカナだが、住民たちの気持ちにぴったり来たのだろう。「仙台の息子のところにしばらく寄せてもらっていたが、やはりここがいい。自由に出歩けるし、畑もある。何よりコミュニティがある」。そういう思いがみんなから出されて、僕らも少し温かい気持ちになる。


一連の話し合いの最終日には、女性たちだけの会をもった。これがすごかった。それまでの男性中心の会に比べ、迫力が違った。本音がズバズバ出て、いい意味で議論続出。なんだ、最初から女性中心の会にすればよかったのではないか。


そもそも、この地域のみなさんは、こういう寄合いには慣れている。契約講という伝統的な自治組織があり、地域のまとまりは、地域の人たち自身が自慢するところだ。それでも、みんなの意見をお互いに聞き合うことは、貴重なステップになった。話し合いを行った七つの集落のほとんどで、次回は、僕ら支援者抜きで、集落内だけの話し合いをするということになった。


制度的な障害もあり、また個人の利害もからむので、集団高台移転は決して楽な道ではない。しかし、地域のまとまりがある以上、この地区は大丈夫だと思う。一刻も早く住居が再建され、コミュニティが復活することを願うばかりだし、そのお手伝いを続けていきたい。


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2011年

11月

25日

【41】石巻の復興とともに

このコラムでも何度か取り上げてきた宮城県北上町(現石巻市)。ヨシの話とか、栗拾いの話とか、戦後開拓の話とか、磯物の話とかを取り上げてきた。とにかく二〇〇四年に通いはじめてから、僕はたくさんのことをこの地域から教えてもらった。


その町が今度の東日本大震災で大きな被害にあった。とくに北上町の海辺の村々は、壊滅的な被害に遭った。震災後この地を訪れた僕らは、見慣れた集落の家並みがごっそりなくなっているのに唖然とするしかなかった。幸いお世話になった多くの人たちは生存していたが、そのうちの多くの方が家を失った。残念ながら亡くなった方々もいた。


そうこうしているうち、石巻市でNGOのパルシック(アジア太平洋資料センターPARCから生まれた国際協力NGO)が活動していることを知った。連絡をとり、連携の可能性を探った。パルシックは四月から支援活動を始め、酪農学園大学の学生たちをボランティアに受け入れていた。酪農の学生たちのあと、とくに夏休みのボランティアを北海道大学から派遣して受け入れてもらうことにした。果たして学生たちが集まるか少し心配だったが、関心は高く、文学部を中心に三〇名以上の学生が派遣に応じてくれた。


現在パルシックは、在宅被災者が多くいる石巻市内のエリアで、コミュニティ・カフェの運営を中心に活動している。学生たちもそのコミュニティ・カフェの手伝いをしたり、その日その日のさまざまなボランティア活動に従事した。


僕らは今、パルシックとともに、石巻市の旧北上町地区で復興支援に乗り出そうとしている。支援、というほど大げさなものではない。ほんの少しのお手伝いだ。


旧北上町地区の漁業地区である「十三浜」は、もともと漁業が盛んなところ。近年はワカメ、コンブ、ホタテの養殖やサケの定置網が主力だ。しかしその設備も、漁師さんたちの家もほとんどが壊滅してしまった。集落をどう再構築するか、そして漁業をどう復興させるかが焦眉。集落については近隣の複数の高台へ集団移転するという方向が、震災後早い段階で地域から出された。もともと「契約講」という地域組織がしっかりしていて、漁業という産業基盤もしっかりしているところだからこそ、住民たちの意思表示も早かった。漁業復興は、まず主力のワカメの復興から始め、今年十月からの種付け、来春の収穫を目指してすでに動き出している。漁協の佐藤清吾さん(宮城県漁協十三浜支所運営委員長)は、「みんなで力を合わせて復興していく。一〇〇人で一歩、と進んでいく」と語る。僕らも少しでもお役に立ちたいと考えている。


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2011年

8月

25日

【40】高木仁三郎さんと新しい専門性

こんなときだから、高木仁三郎さんについて書こう。


八〇年代半ば、僕は、自主講座(反核パシフィックセンター東京)というところで活動していた。東京の文京区に小さなビルがあって、その一~三階がトライプリントという印刷会社(自主講座の人たちが作った会社だった)で、その上に「自主講座分室」というスペースがあった。そこに僕は出入りしていた。チェルノブイリ原発事故後は僕らも反原発運動に大きな力を注ぐようになって、高木仁三郎さんのところ(原子力資料情報室)にも何かと通うようになった。それは集会の打ち合わせであったり、何かの企画の話し合いであったりした。


それより前の一九八一年、高木さんは友人(現在茨城大学にいる河野直践さん)が始めた東京大学の自主ゼミで学生相手に講演をし、それが『いま、普段着の科学者として考えること』という手書きの冊子にまとめられた。僕はその講演を聞きそびれたが、冊子を友人から手に入れて読んだ。高木さんの死後、それは著作集に収められ初めて世に出ることになる(著作集第七巻)。のちにはよく聞いたが、おそらくかなり早い段階での高木さんの自分史語りだった。今読み返すとそれは、まとまりのある話というより、高木さんがどう考えて生きてきたかをかなり率直に語ったものだった。


「政治・経済の側に取り込まれるのではなくて、いわば人間の側に科学技術を引き寄せる、そういう立場として、市民と、科学技術との間に僕ら自身が存在するということしかないのではないか」。「旧来の専門性という事とは、かなり違って、数式をうまくいじるという形とは違ってくるけれども、いわば新しい、いい専門性というようなものを自分でも磨いていかなくてはならない」



いつだったか、原子力資料情報室で食品の放射線を図る測定器を導入してそれを試験的に動かしている高木さんを見たことがある。僕らにはそのときの高木さんがいつもより少しテンションが高かったよう気がして、一緒に行った友人と「高木さん、やっぱりこういうの好きなんだなあ」と笑ったのを覚えている。


生活クラブからの委託で原発事故時の放射能のシミュレーションの仕事を原子力資料情報室で請け負い、僕も少しだけそのお手伝いをしたとき、高木さんは、「原子力資料情報室の仕事は本来こういうもんなんだよなあ」と言いながら、ドイツにあるらしい市民の研究機関の名を挙げた。そういう例を知っていたから、チェルノブイリ後、さっとスタッフを増やして(そういえば僕も誘われたのだった)、研究NPO(当時はそんな言葉はなかったけれど)としての体制を着実に作りあげた。


そういえば、高木さんはどこかで「自分は徐々に反原発になっていった」といった内容のことを書いている。最初から反原発というより、反対運動の住民たちとのやりとりの中で、住民の思いと科学を往復しながら、反原発というポジションを獲得していった。チェルノブイリ原発事故の食品放射能汚染の問題の際も、市民からの多様な質問に答えて中で「原子力資料情報室は相当にきたえられた」と語っている。市民との相互作用の中で「新しい、いい専門性」を獲得していったということだろう。そして、本来「専門」ではない事故論、自然論などを、まさに新しい専門家、のちに高木さんが使う言葉で言うと「市民科学者」として深めていった。


高木さんがやりたかったことの一部は、NGO/NPOや学問の世界で半ば常識化し、また半ば制度化もされてきたが、実現されていないこともまた多い。


高木さんについて話したいことはまだたくさんあるけれど、今日はここまで。


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2011年

6月

25日

【39】被ばくという不確実性との憂鬱なたたかい

放射性物質が大量にまき散らされた。実は「前代未聞」ではない。核実験が繰り返された一九六〇年代に日本でもかなりの量の放射性物質が降っている。それはともかく、今回の現実を前に、「安全だ」を繰り返す御用学者たちは論外として、そのリスクをどう考えるのか、なかなか憂鬱な話だ。この間、ネットを中心に市民の間で、さまざまなリスク・コミュニケーション(危険についての議論・対話)が繰り広げられたが、そこで、さまざまな問題が浮かびあがってきた。


リスク・コミュニケーションは疫学を中心とした研究蓄積をもとにしたリスク論的な視点に頼らざるをえない。リスク論とは、社会のさまざまなリスク(事故、病気、災害)について、それぞれがどのくらい危険なのかを研究の蓄積から量的に評価し、政策的にどのリスクの軽減に力を注いだらよいか判断しようという考え方。前提には、現代の生活においてゼロ・リスクはありえないという認識がある。この考え方は、大筋においては間違っていない。


しかし、今回、リスク論的な冷たい(?)論理と人びとの具体的な生活とがどうつながるべきか、がなかなか見えない。ICRP(国際放射線防護委員会)の基準だと「1ミリシーベルトの被ばくで1万人に0・5人のガン発症」となる。科学者の中のある種の国際的な合意形成の中でこの基準が決められているとき、それを市民はどう受け止めて行動すべきだろうか。もちろんICRPは原発推進寄りだとして、より厳しい評価をするECRR(欧州放射線リスク委員会)があり、そこが出している基準もある。


しかし、いずれにしても、そこでとられているのは、確率論的な評価である。研究蓄積がある程度あるとはいえ、すべてが分かっているわけではないし、研究結果には相当な幅がある(場合によっては一桁も二桁も違っている)。そこで、統計学を駆使して、このくらいの確率でこういうことが言えるのではないか、ということを積み上げていき(つまりは推測に推測を重ねて)、だいたいこういう基準でよいのではないか(しかし研究が進めばそれが変わる可能性は当然ある)、ということになる。だからこそ、ICRPとECRRでは数字がずいぶん違う。


さらに、今回の放射性物質のまき散らしの場合、ホットスポット(とくに放射性物質の濃度が濃いところ)が存在しているであろうことや観測値が点であって面的でないということから、不確実性はますます高く、その結果、確率論的なものに加え、推測やシミュレーションでしか議論できない、ややこしい事態になっている。


こうした不確実性の中のリスクにどう向き合うかということについて、これまでのおおよその解答は、「一人ひとりの市民がそうしたデータを踏まえて判断し、その上で行動すべし」あるいは「データをもとに討議の上で合意形成する」というものだった。しかし、今回はどうもそれが通用しない。一人ひとりがデータを踏まえて判断し行動するには、あまりに不確実性が高く、身に迫ったものを判断するにはあまりに考えなければ行けない要素が多い。シーベルトとベクレルの違いをみんなちゃんと理解するのはやはり難しいし、理解できても、みんながICRPやECRRの基準値について、その結果だけでなく、それが出されてきた背景まで考えて、「合理的に」判断することは無理だろうし、実際に出てくる観測値について批判的に検討を加えることも無理だろう。さらに、「1ミリシーベルトの被ばくで1万人に0・5人のガン発症」という確率論的なリスク評価は、今回生活者の不安や判断とは相当ずれていると言わざるをえない。私自身、反原発運動の中でいくらか放射線リスクについて勉強していた者として、現実のリスクをどう考えたらよいか、また、他人にリスクをどう伝えたらよいか、たいへん悩んだ。


そもそも、確率論的なリスク評価は、合意形成の参考データとしては機能すると思われるが、個人の行動の判断基準としては機能しないのではないか。もっと言うと、このような不確実性に一人ひとりが向き合うことは可能だろうか、また、それはよいことだろうか。不確実性に一人ひとりの判断で合理的に向き合えない人はどうすればよいだろうか。しかし一方で、リスク評価を全く馬鹿馬鹿しいものとして無視することはどう考えても現実的ではない。ならばどうすべきだろうか。一つの解答は、市民の立場でリスク・コミュケーションを行う中間的な組織やセミ専門家の必要性ということになると思うし、今回もそうした人びとが活躍している(原子力資料情報室、市民科学研究室、分散型エネルギー研究所、サイエンス・メディア・センターなどなど)。しかし、それだけでよいのかどうか、よくわからない。


そもそもこんな無駄な不確実性との格闘を個人に強いる社会はもちろんよい社会とは言えず、だからこそ、原発や核燃料サイクルの諸事業は廃止すべきである。しかし、一方で目の前の原発、そして放射性物資のばらまきの前に、私たちはどういう戦略を練るべきだろうか。早く戻りたいと言っている避難区域の福島の人たちとどう向き合うべきだろうか。


さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』129号(2011年5月号)掲載 


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2011年

4月

25日

【38】新妻昭夫さんとの旅

誰かと一緒に旅するのは楽しい。志を同じくし、しかも目の付けどころが違う人と旅するのはなお楽しい。『種の起源をもとめて』(毎日出版文化賞受賞)などで知られる生態学者・博物学者、新妻昭夫さんは僕にとってそんな存在だった。その新妻さんの突然の訃報を知らされたのは昨年11月。享年61。


1988年、僕は鶴見良行さんを介して、新妻さんに出会った。進化論を提唱したダーウィンやウォーレスについて魅力的な文章を書いていた新妻さんを、どこからか鶴見さんは見つけてきて、面識のなかった新妻さんにいきなり「インドネシアの船の旅に出ないか」と誘った(このやり方は鶴見さんお得意のパターンだった)。北海道大学探検部で鳴らした新妻さんは、すぐに「参加します」と返事した。この年、僕も新妻さんも、鶴見良行さん、村井吉敬さん、森本孝さんらと東インドネシアを木造船で回るという旅をした。みんなビンボーだった。僕はビンボーな学生で、新妻さんはずっとフリーだった。権威主義的なところが全くない自由人だった新妻さんを僕は慕い、好んで一緒に旅をした。


新妻さんは蝶採りの名人で、いつも捕虫網と三角紙(捕まえた蝶を入れる)を携えて、蝶と追いかけていた。動物の糞を見つけは、観察を始める。そういうことに関心のなかった僕も、地面を眺めたり空を眺めたりしながら歩くということを覚えた。


あれは、新妻さんと僕の至福のフィールドワークな日々だった。


新妻さんにとってこうした旅は、150年前にアルフレッド・ウォーレス(ダーウィンとともに進化論をとなえた。『マレー諸島』などの旅行記でも知られる)が歩いた足跡を自分の足で追う旅でもあった。旅は新妻さんの中で熟成し、ウォーレス論の白眉である名著『種の起源をもとめて』に結実した。


新妻さんは札幌出身。実家は昔、札幌南部で「新妻葡萄園」というのをやっていたらしい。1998年に生まれて初めて定職(恵泉女学園大学教員)を得た新妻さんは、(今となっては)晩年、園芸(ガーデニング)の研究に取り組んだ。イギリスの庭づくりが近代の歴史の中でどういう意味を持ったか、庭とはそもそも人間にとって何なのか。その問いは、「新妻葡萄園」の血を引く新妻さんの先祖返りだったかもしれない。


僕は自然と人間との間の相互関係を「半栽培」という言葉で表し、その関係の多様さについて、仲間たちと議論していた。新妻さんの園芸研究はそれと交差し、新妻さんは僕らの研究会にも熱心に足を運んでくれた。僕は新妻さんとまた交われたことがうれしく、またかつてのように一緒に歩くことを夢見ていた。


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2011年

2月

25日

【37】米国シアトルの多彩な地域活動(2)

昨年十~十一月に訪れたシアトルの話のつづき。


シアトル空港に着いたとき、ホテルまで送ってくれるバスの運転手と話をしていたら、その運転手が西サモア(ポリネシアの小国)出身だということがわかった。西サモアから米国への移民が近年多いとは聞いていたが、こんなところで会うとは。米国内をあちこちしていて、今はシアトルで働いているという。「早く故郷に帰りたいよ」。もう少し稼いでから帰るということらしい。


シアトル滞在中、「多様性(ダイバーシティ)」という言葉をたくさん耳にした。シアトルが民族的に多様な町であり、その多様性に配慮したまちづくりを行わなければならないという意識がたいへん浸透している。


エル・セントロ・デ・ラ・ラザ(スペイン語で「みんなのセンター」)というセンターを訪れた。月に一度センター内の案内ツアーの日を設けていて、その日に合わせて訪問。僕らは、大学生や一般人と一緒に案内してもらった。主にヒスパニック系の人たちを対象に、さまざまな生活支援やアドボカシーを行っている民間団体である。


センターの建物はともと古い学校だった。センターの歴史は、一九七二年、活動家たちがすでに廃校になっていたこの学校を平和的に占拠したことに始まる。当時は先住民族を含む各民族、アフリカ系の活動リーダーたちがお互いに助け合いながら運動を進めている時代で、その中からヒスパニック系の運動がこの建物の占拠に成功したのだった。一九六〇年代からの学生運動、ベトナム反戦の流れも汲んでいた。


この占拠はのちにシアトル市長によって公式に認められ(それもすごい話だ)、エル・セントロ・デ・ラ・ラザの活動もさらに進展した。現在センターは多くの寄付、ボランティアに支えられ、連邦政府や州政府、市当局からもお金を引き出し(現在年間五〇〇万ドルの予算で、うち行政からの補助金は約六〇%)、保育、進学支援、青年教育、住宅購入支援など、ヒスパニックを中心とする低所得者層向けのさまざまなサービスを行っている。建物の中の保育園では子供たちが走り回っていたし、その正面の部屋では、ちょうどフードバンクからの食料を受け取る人の列ができていた。


シアトル郊外のコ・ハウジング(住む人が集まって事業主になり建設する集合住宅。コーポラティブ・ハウス)を見学したときも、「多様性」という言葉が出てきた。二七の家族が参加しているコ・ハウジングの代表キャシー・セラーさんは、「なるべく多様性が出るようにと思って家族を集めました」。各家の玄関が向き合う方になっていて、真ん中には美しい庭が広がっている。コモン・スペースとして、共同キッチン、ダイニング・ホール、共同ランドリー、倉庫、子供の遊び部屋、事務室、会議室がある。会議室には、子供たちのそれぞれの家族の成長の様子を示す集合写真が掲げられている。「週三回みんなで食事をしています」。


多様な人たちが一緒に住み、支え合う。


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2010年

12月

25日

【36】米国シアトルの多彩な地域活動(1)

日本人にはイチローのシアトルマリナーズでおなじみのシアトル市。実はシアトルは、多彩な地域活動が盛んな地としても知られている。それを視察しに一〇月二八日から一一月五日の一〇日間ほどシアトルを訪れた。


私たちが注目した一つはシアトル中に広がるコミュニティ・ガーデン。


その一つピカルド・ファームを訪れた。このピカルド・ファームはシアトルのコミュニティ・ガーデン発祥の地で一九七三年から三七年の歴史をもつ。有数の大規模なコミュニティ・ガーデンで現在二〇〇軒以上が参加しているという。参加者は、年間八時間以上、コミュニティ・ガーデン全体のために何らかの労働をしなければならない(「実際にはみんなそれ以上働いているけどね」)。


平日だが、何人かが畑仕事をしていた。あるおばあさんに話を聞いたら、その人は初期からのメンバーだった。「レタス、ブロッコリー、トマト、豆、パクチョイなどいろいろ植えているわよ。週1~2回通っているわね。夫も亡くしてね、今はこのコミュニティ・ガーデンに通ってくるのが生き甲斐。フードバンクへの寄付が私の主な目的」。フードバンクとは、貧困者向けの食料供給のしくみで、このピカルド・ファームでは、参加者に「火・金・土の朝八時に収穫物を洗って置いておいてください。回収してフードバンクへ渡します」と呼びかけている。


ビルが立ち並ぶ市街地にもコミュニティ・ガーデンがある。ベルタウン・ピーパッチがそれ(シアトルではコミュニティ・ガーデンのことを「ピーパッチ」と呼んでいる)。このベルタウン・パッチは、もともと開発されようとしていた土地を住民たちが市に買い取らせ、そこをコミュニティ・ガーデンにしたもの。「市に払う使用料は年間三五ドル。現在三八人が参加して、野菜づくりや花づくりを行っています。参加者は、夏の水やり、堆肥づくり、草刈りなどそれぞれの役割をもっています。夏には、ときどき、堆肥づくりなどの共同作業のあとパーティを開きます」、とコーディネータ役のクリス・ゴーリーさん。そしてここでも、フードバンクとの連携があった。ガーデン内にフードバンク用の区画があって、そこを担当している参加者が野菜作りを行い、フードバンクのNPOに渡すというやり方だ。


ベルタウンのすぐそばには、昔港湾労働者が使っていた家が三つ残されている。現在その一つがコミュニティ・ガーデン用に使われている。あとの二つは、市の事業で「アート・イン・レジデンス」の一環として芸術家が住んでいる。そういえば、このコミュニティ・ガーデン全体がアートに満ちている。畑の形もおもしろいし、周りの塀には絵が施されている。そんなところだから、散歩に訪れる人も多い。私たちが訪れた間にも、多くの人びとが散歩に来ていた。


コミュニティ・ガーデンの多くは、シアトル市のマッチングファンドという制度を利用して整備事業を行っている。このマッチングファンドこそ、シアトル市の地域活動が盛んな秘密の一つ。一九八九年に始まったマッチングファンドは、市民たちが自らが行いたいと思ったプロジェクトについて、簡単な申請により市から助成金が得られるというもの。

大きなプロジェクトについては市民代表たちが審査する。


マッチングファンドのおかげもあり、コミュニティ・ガーデンは現在シアトル中に七三ヶ所に広がり、全部で二〇五六世帯が参加している。コミュニティ醸成、環境保全、貧困対策、そして公園機能、と多面的な機能を果たしている。


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2010年

10月

25日

【35】聞き取りからのまちづくり――南幌町の試み

この4月から、僕のゼミと南幌町の協働事業が始まった。


南幌町では現在町の総合計画と社会教育中期推進計画の策定作業が進行中。その計画を作っていくために、聞き取り調査をしよう、ということになった。


通常、こうした計画づくりでは、3つのやり方がある。一つは役場が勝手に作ってしまうやり方、一つはアンケート調査をして住民の意見を吸収しながらやるやり方、そしてもう一つは住民参加で計画を作るやり方。アンケート調査は、よほど周到にやらないと、本当の意味で住民の意見を集約することは難しい。住民参加はもちろん悪くないが、たとえば公募で選ばれた10人が議論して作っていく場合、やはり幅広いニーズを拾うのはなかなか難しい。


そこで住民参加型の聞き取り調査の出番である。住民自身が住民に対する聞き取り調査をし、その結果をもとに議論していく。そういうプロセスを作れないか。実は日本広しと言えども、聞き取り調査を軸にした計画づくりの前例はほとんどない。僕は南幌町の役場や社会教育審議会の人たちと話をしながら、その道を模索していった。


僕らの社会実験は、まず、ゼミ側では南幌の歴史をじっくり勉強し、一方、南幌側では社会教育審議会委員のみなさんとワークショップを開くことから始まった。どんな聞きとりをするか、南幌町側と学生側の双方で並行して質問事項を考えていった。


そして6~7月に、社会教育審議会委員やまちづくりグループの人たちと学生とが一緒になって、中高生を含む総勢50名の住民への聞き取り調査を敢行した。どんな生活をしてきたのか、どんなことを考えながら生活しているのか、南幌町がどんな町になればよいと思っているか、などなど、さまざまに聞いていく。単に質問して答を得るというのではなく、そこでいろいろ意見を交わしながら聞き取りは行われた。学生も交えた住民同士の対話こそ、この社会実験の肝である。


当たり前だが、町にはいろいろな人が住んでいる。暮らしぶりや町のあり方につながる本当に多様な話が出てきた。その一つ一つが僕らは大事だと考えた。あまりに多様すぎて途方にくれそうにもなったが、まずは、一人ひとりの聞き取りデータを20~30の短い文章にまとめた(これは学生たちの仕事)。そして、次にそれを一枚一枚のカードにしてみた。千枚を超えるカードができた。


さて――。この千枚のカードを使ってワークショップをしようと思うのだが、どうするか。単にカードを整理するのではなく、一枚一枚のカードに込められた住民の思いを大事にするにはどうすればよいだろうか。2度ほどゼミで実験し、さらに、社会教育審議会委員のみなさんとプレ・ワークショップを行って、本番の「まちづくりワークショップ」に臨んだ。


8月29日に開かれたまちづくりワークショップには、これまでこのプロセスに参加してくれた住民や学生のほか、町議会議員、各種委員、高校生(高校生がけっこう活躍した!)、そして聞き取りの対象者だった人たちなど総勢六三名が集まった。数人のグループに分かれ、まず各自に割り当てられた20枚程度のカード(聞き取りデータ)を読む。そして、印象に残ったカードを何枚か選び、一枚ずつ語りながらグループ内で提示。それを回しながらさまざまに議論する。模造紙にこれらのカードのほか、議論で出てきたキーワードを付箋紙で貼り付けながら、まとめていき、最後に各グループからの発表。聞き取った内容が書かれたカード、そして参加者の思い、それらがよい化学反応を起こしてくれた。


聞き取り調査という手法を使ったまちづくりは、まだまだ発展途上。でも、その可能性を大いに感じたこの数ヶ月の社会実験だった。


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2010年

8月

25日

【34】「親子ラジオ」とかつお節に生きる

今年の三月一七日、お世話になっていた沖縄県池間島の譜久村健(ふくむら・けん)さんが亡くなったとの報を受けた。譜久村健さんは、宮古島の北に位置する小さな島、池間島で、長く「親子ラジオ」という有線放送を担ってきた。一軒一軒からお金を集め、島の人たちにとってかけがえのない地域のメディアの役割を果たしてきた。僕は池間島で調査を始めてから譜久村さんのお世話になりっぱなしだった。


譜久村さんが亡くなる前日、僕は理由もなく体調が悪く、一日中白昼夢を見ていた。譜久村さんが死の淵をさまよっていたのが、遠く僕の体にも何か響いたのか。


僕が譜久村さんにお世話になったのは、親子ラジオについてではなく、かつお節についてだった。この小さな島の多くの人が戦前、そして戦後も、「南洋」にカツオを獲りに行っていた。そのことにとても興味をそそられて、僕は、たくさんの人から「南洋」話を聞かせてもらうことになった。そのときいつも譜久村さんのお世話になった。譜久村さんが、それじゃああの人、それじゃああの人、と話を聞く人の選定をしてくれ、そして連れていってくれた。僕が何を知りたいのか、何を聞きたいのかを推測して、いつも的確な人選をしてくれた。


譜久村さん自身、一九三九(昭和一四)年から一九四四(昭和一九)年にかけての五年間、故郷池間島を離れ、ミクロネシアのトラック(チューク)諸島で生活をしている。カツオ漁に従事したのだが、まだ若かった譜久村さんは、飯炊きから始め、機関士の見習いもした。当時トラック諸島は、多くの沖縄の人たちがかつお節産業に従事していて、ちょっとしたバブルだった。町には多くの飲み屋もあり、譜久村さんは、他の青年たちと一緒によく遊んだという。とはいえ、カツオ漁をやっていたのは最初の二年間。一九四一(昭和一六)年、他の男たちとともに軍に徴用され(漁船も一緒に徴用された)、以降は軍のために働かされる。カピンガマランギ島という同じミクロネシアの離島に水上基地を造る仕事もした。


一九四四年、引き揚げた譜久村さんは、東京の知り合いの会社で働く。一九四五年の東京大空襲に遭う。「危ないから逃げろと言うが、逃げる場所がない。みんな燃えている。強行突破して、線路沿いに逃げた」。譜久村さんは一九四四年二月のトラック大空襲にも遭っているから、大空襲は二度目になる。


戦後池間島に戻ってきた譜久村さんは、かつお節工場で働きながら、「親子ラジオ」を立ち上げる。親子ラジオとは、戦後、沖縄や奄美の各地に米軍の資金援助で設置されたコミュニティ有線放送で、NHK放送をそのまま流したり、地域のニュースを流したりしていた。池間島では、かつお節華やかなりしころ、この親子ラジオから譜久村さんが呼びかけるアナウンスで、工場に人が集まってきた。他地域の親子ラジオが次々に廃止になる中、譜久村さんは、この親子ラジオを続けた。僕は池間島の多くの人びとから、この親子ラジオが果たしてきた大切な役割について聞かされた。


親子ラジオは沖縄の中でも徐々になくなっていき、沖縄で唯一残った親子ラジオの担い手として、譜久村さんは、晩年、NHKやら女性セブンやらに何度も取り上げられ、一躍時の人ともなった。


譜久村さんがいなかったら、僕はあんなに池間島に通わなかっただろう。人と人、地域と地域が結びつくとき、そこには必ずこういう人がいる。


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2010年

4月

23日

【33】山村の「大試食会」

二月一一日、日高町千栄(ちさか)地区というところで、「大試食会」なるものが催されて、僕も学生たちと一緒に参加した。地域の人たちが思い思いに作ってきた食べ物をみんなで食べるという会だ。白花豆の煮豆、山菜スドキのめんみ漬け、鹿肉のみそ漬け、フキノトウ入り練り味噌、ギョウジャニンニクの酢みそ和え、ヤマベの甘露煮、大根の漬け物、紫いもパン(紫イモと小麦粉「春よ恋」で作った)、かぼちゃの茶巾しぼり、ハスカップゼリー、などなど、全部で五九種類の料理が並んだ。ほとんどがこの千栄地区でとれた食材を料理したものだ。とても全部は食べきれなかったが(ああ、満腹)、地元食材のすばらしさに正直感嘆した。


日高町とおつきあいを始めて一年。学生たちと一緒に、まちづくりのお手伝いをしてきた。ワークショップを何回も開いて、地域の資源をみんなで掘り起こし、それをもとにモデルツアーを構想し(実際にモデルツアーもやってみた)、また、他地域の視察にも行き、さらには、地域の課題も浮かびあがらせた。


モデルツアーでは、星を見る、酪農体験、地域のご老人からお話しを聞く、といった地域資源を活かした企画が試みられた。


僕らがお手伝いできたことは少ないが、僕らが来ることで、もともと地域の人がもっているパワーを引き出した形になった。


「小学校が地域にあったころは小学校が地域の中心だった」と千栄地区の人たちは言う。その小学校は一九九八年に閉校になり、地域の人が集まることも少なくなった(ひとり老人クラブだけは元気だけれど)。ならばもう一回集まる場を設けようよ、と住民ネットワークとして「チロロ」という組織を立ち上げ、二人の若い女性が事務局を担当することになった。「チロロ」は、月一回「チロロ便り」を発行すると同時に、地域のイベントを積極的に企画した(「チロロ」は千栄地区のもともとの名前)。


小学校があったところには、現在、「北海道アウトドアアドベンチャー」というラフティングなどを行うアウトドア業者が入っている。そこの人たちもまたこのチロロを担っている。ここがこれからの千栄地区の核にならないか、と地域の人たちも期待している。古くからの人と新しい人が一緒に日高町を盛り立てようとしているのを見るのは、とてもうれしいことだ。


「大試食会」が催されたのはそんな流れの中にある。地域の人々がもう一度新しい形でつながり、さらには食べ物という地域の文化の根源をもう一度引き出すことが意図された。

3月には「認知症サポーター要請講座」が開かれる。これもチロロの話し合いの中で、こんなのが必要だよね、というところから講座が開かれることになった。つながりあえば、知恵が出る。知恵が出れば、行動にもつながる。

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2010年

2月

20日

【32】雲南と資本主義

昨年一一月、中国雲南省を訪れた。あこがれの雲南省だ。民族植物学者中尾佐助が唱えた照葉樹林文化圏の中核でもあり、さまざまな農耕のふるさと、雲南省。


しかし、国際学会のあった雲南省昆明市は、そんなあこがれの雲南省イメージを見事に壊してくれる人口六〇〇万の巨大都市だった。ラオス、タイ、ミャンマーを含む東南アジア内陸部に中国元経済圏を築いているその中心の一つが昆明。僕は町で三度乞食に出会った。乞食がいたのは、高級デパートのすぐ近く。僕でも手が出せないような高額商品が並ぶ高級デパートと乞食という対比。むきだしの資本主義。


学会のあとのエクスカーション(視察)は、飛行機で雲南省最南端のシーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州に飛んだ。タイ族のみならず、さまざまな少数民族(と言っても中国のことだから決して少数ではない)の住む州。そこで、いくつかの村や植物園などを訪れたのだが、いちばんびっくりしたのは、バスで走行中に見た山々。右も左も山の中腹が延々ゴム園になっているのだった。この風景はいつか見た風景。マレーシアやインドネシアでアブラヤシプランテーションが広がる風景に似ているのだ。延々と続くゴム園のほとんどは新しいゴム園で、まだゴムの木も伸びきっていない。


ゴムは車のタイヤに使われる。こんなにどこもかしこもゴム園にして供給過剰にならないだろうか、と思ったが、現在中国国内での自動車生産は急増しており、タイヤ用のゴムはむしろ輸入しているという。となれば、いくらゴム園を作ってもマーケットはあるということか。


ゴム園のないところでは、今度は茶畑が延々と続く。ここはプーアル茶で有名なところである。その原料をプランテーション形式で大量生産している。


そんな中、昆明植物研究所の裴盛基(ペイ・シェンジ)博士が、「茶の森」というものに連れていってくれた。「茶の森」? なんだろう、と思ってついていったら、そこは、森の中の茶園だった。プランテーション型の茶園ではなく、森の中に茶を植えている。裴博士曰く、「このやり方がもともとのこの地域の茶生産のやり方です。生産性はプランテーション型の茶園に比べてずいぶん低いですが、品質がよいので値段は五~一〇倍します。ですから十分やっていけるのです」。裴博士は、こういう「茶の森」こそが持続可能な農業として大事だと考えている。研究者らが地域住民とこうした持続的な農業を進める協働も始まっているらしい。「茶の森」を歩いた最後に東屋があって、そこでお茶をいただいた。たいへん美味。村の女性が茶(円盤状に固めている)を売っているので一つ買った。こういうエコツアーもよいだろう。


それにしても、昆明の都会の姿、そしてゴム園やプランテーション型の茶畑が続く姿との対比では、こういう「茶の森」はいかにも小さく見える。


雲南はどこへ行くのか。

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2009年

12月

21日

【31】インドネシアのかつお節

いましばらくかつお節の話にお付きあいを。


かつお節をめぐる最近の変化と言えば、なんと言っても、輸入かつお節の伸びだ。現在私たちが食べているかつお節の一五%ほどが輸入。つい何年か前までは数%だった。その中心がインドネシアだ。


インドネシアでかつお節を作っているのは、スラウェシ島北部に位置するビトゥンという町。このあたりはカツオの生産地でもあり、そのカツオを水揚げして、冷凍加工、缶詰、かつお節にして国内向け及び輸出をしているカツオの一大基地である。


というわけで、この九月、久しぶりにインドネシアを訪れ、ビトゥンのかつお節工場をいくつも回った。ビトゥンでは現在四社がかつお節工場を展開している。


そのうちの一つA社では、一二〇名ほどの従業員が働いている。大きな工場だ。生のカツオを切るセクション、煮熟するセクション、骨抜きをするセクション、焙乾するセクションに分かれ、それぞれ忙しそうに動いている。骨抜きのセクションでは、ちょうど地域の水産高校の女子学生たちが実習で入っていた。


A社の責任者Cさんは、高校で日本語を勉強して地元の大学に入ったが、在学中の一九八七年、日本人が始めたかつお節の会社に入社し、大学は中退。以来、いくつかのかつお節会社を渡り歩いて、現在の会社に至っている。ビトゥンで戦後かつお節の製造が始まったのは一九七〇年代だが、なかなか軌道に乗らず、一九九〇年代、ようやく生産が安定する。Cさんの歩んできた人生は、ビトゥンのかつお節の歴史と重なる。


「現在、ヨーロッパ向けに衛生管理基準をクリアするための努力をしています。これはなかなか難しいです」。ヨーロッパ? 「今ビトゥンでは荒節(花かつおにする前のかつお節)を日本に輸出するのみで、削り節はやっていませんが、今後は削り節を作ってインドネシア国内、シンガポール、そしてヨーロッパに売るのが目標です。ヨーロッパではまず日本食レストランがターゲットです」。いやはや、かつお節業界は意外に展開が早い。


このビトゥン、実は戦前もかつお節を作っていた。愛知県出身の大岩勇という人物がここでかつお節の会社大岩漁業を立ち上げ、日本からの移民とともに地元の住民たちを雇いながら、かつお節を作って日本に輸出していた。そのことが、一九七〇年以降この地でかつお節生産が再開される機縁となっている。


そして、この町と日本との関係は、それにとどまらない。現在、この町から多くの日系人が日本へ出稼ぎに来ている。大岩漁業の落とし子たちだ。茨城県の大洗という町で、多くの日系インドネシア人たちが水産加工の仕事に従事している。


かつお節をめぐってヒトとモノが縦横無尽に動いている。そのつなぎ目の一つが、このビトゥンという知られざる町だった。

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2009年

10月

26日

【30】生徒たちの聞き書き講座

中学生・高校生・大学生が組になってかつお節職人だった人の話を聞き、それを文章にまとめる。そんな試みが静岡県御前崎市で開かれた。主催したのは地元のNPO法人手火山(ふりがな=てびやま)。御前崎に生まれて、遠洋漁業に乗ったり、インドネシアでかつお節製造の仕事に携わったCさんが立ち上げた地域活性化のためのNPOだ(ゆうひろば○月号参照)。手火山とはかつお節の伝統的な焙乾方法。


Cさんとインドネシアで知り合っていた僕ら(藤林泰(埼玉大学)、赤嶺淳(名古屋市立大学)と僕、という三人のかつお節研究仲間)は、Cさんの地域への思いにほだされ、何かお手伝いできないかと「聞き書き講座」を企画提案した。地元の高校二校と中学一校が参加してくれることになった。それに名古屋市立大学、東海大学の大学生が加わり、総勢三十名で聞き書き講座が開かれた。Cさんが、カツオ漁やかつお節に携わった地元のお年寄り(上は九十二歳)に呼びかけてくれ、十三名が語り手になってくれた。カツオ・マグロの遠洋漁業にたずわってきた人、地元でかつお節工場をやってきた人、かつお節職人として九州から宮城まで渡り歩いていた人、それに、地元で「駄賃かつぎ」と呼ばれるカツオの運び屋をやっていた女性たちが語り手だ。


中学生、高校生、大学生でグループを作り、それぞれ、質問項目を考える。それをもとに九十分程度の聞き取りを行う。おじいちゃん、おばあちゃんたちは、孫やひ孫にあたるような生徒・学生たちとの話に、初め少し緊張していたが、すぐにうち解けて、いろいろ話してくれた。


ICレコーダに録音したものを各グループ内で分担し、文字に起こす。それを大学生がパソコンで入力する。それをプリンタで打ち出し、出てきた語りの文を、時代や項目ごと整理し直して、小見出しを付け、文章もそれらしく直し、聞き書きのできあがり。質問作成からまる三日かけて、この作業を行った。


中学生や高校生は、なにやら怪しげなイベントに、最初、何をどうやるのか、いったい聞き書きとは何なのか、よくわからないまま参加したが、やっているうちに面白くなったようで、最後には「またこういう機会があったら教えてください」という始末。大学生たちは、いいお姉さん、お兄さんぶりを発揮してくれた。


実は企画した僕ら自身、こういう試みがうまく行くのか不安をかかえてスタートしたのだが、予想以上にうまく行った。正直、びっくりだ。


そして最後に発表会。語り手のおじいちゃん、おばあちゃんたちは、自分たちの語った話が中学生や高校生から発表されるのを見て、とっても満足そう。なんだか僕らも、あったかい気持ちになった。

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2009年

6月

26日

【29】グローバリゼーション VS  かつお節業者

鹿児島県枕崎市。かつお節生産日本一の町だ。その港に二〇〇〇トン級の運搬船が泊まっていた。パナマ船籍になっているが、船主は台湾人。


この台湾の会社は、漁船を五隻、そしてこの船を含む二隻の大型運搬船をもっている。漁船はいずれも一〇〇〇トンクラスの大型巻き網漁船。太平洋のあちらこちらでカツオをごっそり獲っている。漁船には、台湾人、中国人、フィリピン人、ベトナム人、マーシャル諸島人が乗っている。


漁船で獲れたカツオは洋上で運搬船に移され、そこから日本、バンコク、そして南太平洋のサモアへ向かい、水揚げされる。日本にはかつお節工場があり、タイとサモアとは缶詰工場がある。売る方にとって見れば、かつお節でも缶詰でもよい。少しでも高く買ってくれるところがよい。日本、バンコク、サモアの相場を見ながら、よし、この船は日本に水揚げしよう、あの船はバンコクに水揚げしよう、と決める。じじつ、もう一つの運搬船は現在バンコクだ。


船主の息子が枕崎の港に立っていた。この息子、日本人のお母さんをもち、日本の大学を出ている。「バンコクは、会社とバンコク側であらかじめ交渉して値段を決めてから入港するので商売としてはやりやすい。一方、枕崎に入れるときは入札になるので、賭けだね」


その入札が朝早く行われていた。枕崎中のかつお節業者が集まり、活気のある入札が繰り広げられる。各業者が入札額を書いた木の札を投げ、次々に買い手が決まっていく。


枕崎には現在約六〇軒のかつお節工場があり、近くのもう一つのかつお節産地、山川(指宿市山川)にも約三〇軒ほどのかつお節工場がある(この二つの町で日本のかつお節の七割を作っている)。


地元のかつお節業者をめぐる環境は厳しい。一つはかつお節の輸入が着実に増えていること。インドネシア、フィリピン、そして中国からの輸入が増えていて、二〇〇五年に初めて五〇〇〇トンの大台に乗った。国内産は約三・五万トンなのでまだ全体からすると一割強だが、これは今後も増えるだろう。


もう一つ、枕崎や山川のかつお節関係の人たちが口を揃えて嘆いていたのが、大手スーパーに価格決定権を完全に握られているということ。原料のカツオの値段が上がろうが、油代が上がろうが、価格は安く抑えられたまま。


しかし、かつお節屋たちも手をこまねいているわけではない。それぞれのかつお節屋は、それぞれ独自に生き残り策を模索している。Aさんの工場では、通常遠洋物・輸入物のかつお節を使うところ、あえて近海一本釣りのカツオにこだわったかつお節を作っている。Bさんの工場では、かつお節製造の工程の最初に来る煮熟(ふりがな:しゃじゅく)という工程であくを取るなどの工夫をして品質向上を図っている。Cさんの工場では、昔ながらの本枯節(カビを付けるかつお節。近年生産量はたいへん少なくなっている)を作り続けている。どこの工場も、決して肩肘張ってこだわっているわけではない。Cさんも「もともと大規模にやるのは性に合っていないので、親父がやっていたの受け継いで本枯節を作り続けている」と言う。それを今若い息子さんが受け継ごうとがんばっている。同じ若い世代ではDさんも、おそらくかつお節業界初の女性工場長としてがんばっている。Dさん、フットワーク軽くあちこち飛び回って情報戦で生き残ろうとしているが、同時に、「この業界は儲かるときも損するときもある。長い期間でトントンであればよい」とも割り切る。


そこそこな商売がそこそこに続いて、みんながそこそこ幸せになれる経済はどうすればできるのだろうか。


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2009年

4月

26日

【28】生き残る地域のかつお節生産

訳あって、かつお節の調査を再開させることになった。かつお節をめぐる人、かつお節をめぐるグローバル化をさぐる調査研究だ。


二月には静岡県の西伊豆町と御前崎(おまえざき)市を訪れた。


どちらもかつてカツオ漁・かつお節の町として名を馳せた町だ。しかし、どちらも今やかつお節業者は数えるほど。それでも辛抱強くかつお節製造を続けている人たちがいる。


西伊豆町の田子地区で今でもかつお節製造を続けている人は、なんと岩手県の出身だった。Aさん(一九五六生まれ)は、集団就職が当たり前だったころ、それを避けて田子地区へ来た。ちょうど親戚の女性が嫁いで来ていたということもあるが、何より、集団就職するよりも田子でカツオ船に乗る方を選んだ。収入もよかった。そして、田子の女性と結婚する。十五年間カツオ船に乗ったあと、妻の家の家業であるかつお節製造を始める。昨年まで現役だった先代からいろいろ教えてもらい、技術を身につけた。


「かつお節」と一口に言ってもいろいろある。Aさんが作るかつお節は、最終製品に仕上がるまで五ヶ月くらいかかる本枯節というもの。伝統的な手火山(てびやま)方式という焙乾(いぶしながら乾燥させること)のしかたを二週間ほどじっくり行なったあと、カビ付けと天日干しを数ヶ月にわたって繰り返す。その技法を守りながら、自分なりの工夫も加えてきた。


Aさんと同じ田子地区のかつお節業者Bさん(一九三八生まれ)。こちらもかつお節製造を続けているが、Aさんとは若干違う路線。手火山方式に改良を加え、手火山のよさを生かしながらより大規模に製造できるような製造方法を採用している。さらにカツオを使ったかつお節以外の商品開発にも余念がない。二年くらい前からはインターネットによる販売にも力を入れ、今ではその収入も大きな割合を占めてきた。


AさんとBさんという二つの違う路線の業者はあいまって、田子のかつお節製造を支えている。戦後四十軒ほどあったかつお節製造業者は現在わずか三軒。地域を支えてきたカツオ漁は今はない。


しかし、Aさん、Bさんに見るように、かつお節製造は、工夫次第で今でも十分生き残れる。不況の影響もあまりないという。


もうひとつ訪れた御前崎では、その名も「手火山」というNPOが立ち上がっている。御前崎に生まれ育ったCさんが始めた。Cさんは、若いころ御前崎でカツオの遠洋漁業の船に乗ったあと、商社に入ってインドネシアでのかつお節製造の立ち上げの仕事をした。定年でそれをやめたあと、御前崎に戻って、NPOを立ち上げた。「手火山」に象徴される御前崎の伝統を生かしながら地域の活性化を模索する。その活動が認められて、都市農山漁村交流活性化機構理事長賞もとった。「活性化だけではないのです。地域の人が誇りを取り戻すこと。それが大事です」とCさん。


地域のかつお節、がんばれ。


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2009年

2月

25日

【27】山村のワークショップから

日高町のある集落でワークショップを開いた。国道二七四号を日勝峠へ抜ける手前の千栄(ちさか)地区。日高山脈を後背にいただく地域でもある。


ワークショップの趣旨は、これからの地域のあり方を考えよう、そのためにまず地域にあるさまざまな資源を掘り起こそう、というものだ。日高町役場が農水省の補助事業を獲得し、僕の研究室がお手伝いをすることになった。


この千栄地区、北海道の典型的な山村で、一見すると「な~んにもない」。だだっ広い地区内の土地は、田んぼの多くが牧草地に変わっていて、空き家も目立つ。高齢化率は四三%。「衰退」とか「限界集落」という言葉が一瞬頭をよぎる。しかし――。


ワークショップは、住民のみなさんが集まり、数人ずつのグループに分かれ、僕や学生たちが話を聞き取るという形で行うことになった。みなさん、いろいろ話してくれるだろうか、と僕らは少し不安を抱いていたが、あにはからん、とってもよくしゃべる人たちであった。しかもその話に僕らはたいへん感銘を受けた。


昭和一〇年にこの地で生まれ育ったあるおばあちゃん。「九十何枚枚という小さい田んぼがありました。ひょうたん田んぼとかたんぼ田んぼとか呼んでいました。今は基盤整備で五枚くらいになりましたけどね。朝三時くらいから起きて畦(あぜ)を手刈り。刈ったあときれいに水が光るのが楽しみでねえ。代掻きをして畦塗りをすると、ぴかぴかして、ほんとうにきれいでね。今は仕事しろと言われるとつらいけど、若いときは楽しくて。三時間くらい寝たらずっと目が開いてました。田んぼだって手植えだったし。子供の起きてる顔ってほとんど見たことがなかった。あのころ元気で働けたことがなつかしい。面白かった。仕事するのが楽しみだった」


まだ二〇代の、やはりこの地で生まれ育った女性。「私らが小学生の時は、まだこの地区に小学校があって(現在は廃校)、学校挙げて千栄のよさを教えてくれました。おじいちゃん、おばあちゃんが学校へ来て、ぞうり作りを教えてくれたり、豆腐づくりを教えてくれたりしていました。だから私たちの世代は千栄のよさをわかっている。家に帰ると、近所の子を自分の妹みたいに面倒みたり、近所の家の畑仕事も手伝ったりしてました。そういうのがあるから、今でも、一人暮らしのおじいちゃん、おばあちゃんの家を覗いて、声をかけています」


こういう話を受けて、住民たちの間で話ははずむ。「おじいちゃん、おばあちゃんたちが何を望んでいるか、リストを作れないかなあ。栗山町でやっているような地域通貨って使えないかなあ」。


ワークショップでは、地域の人たちのこの地区への思いが本当にたくさん出てきた。


山が好きで最近この地に九州から移り住んできたある男性がいる。彼はこの地域のよさは何かと聞かれてこう答えた。「ここの魅力は人です」。僕はちょっとうれしくなった。地域資源はやっぱり「人」であり人間関係なんだなあ。


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2008年

12月

22日

【26】韓国の「村林」

何年かぶりの韓国。知人に誘われて、ソウルで開かれた国際森林研究機関連合(IUFRO)という機関の会議に出席した。会議のタイトルは「アジアにおける森林にかかわる伝統的知識と文化に関する国際会議」。中国、韓国からの参加者を中心に、伝統的な森林管理について知識を共有して政策提言に結びつけようというものだ。


僕はこのコラムでも何度か紹介している宮城県の事例を報告した。住民が地域の自然環境とさまざまな関係を結んでいて、それが村の地域組織と密接に結びついている、という話だ。そんな話が中国や韓国の話とつながるのかどうかよくわからなかいまま報告に臨んだのだが、あにはからんや、話はとってもつながった。


韓国からの参加者は「マウルソップ」というものについて報告した。マウルは村。ソップは林。つまり「村林」である。韓国の多くの村にあるこの「村林」は、宗教的な意味合いと同時に、生態学的な意味合いがあることが報告された。一方、中国の参加者は「風水(フンシン)林」というものの報告をした。「風水林」というのは、やはり村の中にある林で、生態学的な意味合いもさることながら、村人に福をもたらすという信じられているらしい。大躍進時代にかなり伐採されてしまったが地域によって残っている。林学関係者たちが、中国からの参加者も含めて、「宗教」「精神的なもの」を協調するのはおもしろかった。


会議のあとのフィールドトリップでは、ソウルの南方にあるイチョン市ソンマル村という村を訪れた。村は、山際の谷あいの土地に広がっており、三方を森に囲まれている。そして、入り口に当たるところにマウルソップ(村林)が作られていて、結局、村は四方を森で囲われている形になっている。


ここを継続的に調べているソウル大学の大学院生が説明に立った。住民からの聞き取りと科学的な調査をもとに、この村林の意義が多岐にわたることを説明してくれた。防風の機能、村の中の田んぼの温度を調整する機能、田畑の肥料を供給する機能、などなど。村人たちは、この村林があると「落ち着く」と言うという。文化的な機能だ。おもしろいのは、村林にはたいていドングリの木が植わっていて、春に雨が少ないと米の収穫量が下がるかわりに、ドングリの実がたくさん採れ、それが救荒作物の意味をもつということだった。


いろいろ聞いていると、どうも東アジアにおける地域の自然には共通点が多い(韓国の農村地域の景観は日本のそれにきわめて似ていた)。西洋由来の「自然保護」でなく、東アジアの「自然」を語り合う場がもっとあってもよいのではないか。そんなことを思った。


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2008年

10月

20日

【25】小さな「社会」を掘り起こす

自分の仕事は小さな「社会」を掘り起こすこと、と最近思っている。


故・鶴見良行さんは、名著『ナマコの眼』で、歴史の彼方に忘れかけられた、東南アジアにおけるナマコ交易の歴史を掘り起こした。文字としてほとんど残っていないナマコの交易を、わずかな史料から、また、現場を歩くことから、明らかにしていった。香料貿易に代表されるように西洋列強は東南アジア海域の交易を手中に入れたはずだったのだが、なぜかナマコの交易については、なかなか勢力下に置くことができなかった。要は、それが地域社会の細かな網の中にあって、外からの力がなかなか入り込みにくかったということだ。大きなストーリーにだまされていると、そうした小さなストーリーが見えなくなってしまう。本当はそこにあるのに、ないことにされてしまっている。


たとえば、このコラムでも何度も取り上げている宮城県旧北上町での話。海の産物のうち、ひじきなどの磯物は、漁協の権利ではなく、各集落の自治会が権利を持っている。かつては、それが自治会の収入源になった。一方で、「旦那が病気で死んでしまったとかの人には、特例を設けて、礒物の優先権を何年間か与えていました」(漁協組合長Aさんの話)。山の産物では、かつて炭焼きが非常に盛んだった。営林署から許可された山に入り、住民たちは、誰がどこの一角の木を使うか決めていく。長く入札でやっていたが、いろいろ問題も出てきた。B集落のCさんが若くして炭焼きに参加しはじめたころ、この集落では、入札に代わってくじびきでやろうという話になった。年配者たちは反対したが、それで行くことになった。ただくじびきだと、いい木が生えているところを得た人が得をしてしまうので、「そういう場合には500円出してもらうことにしよう、とみんなで話し合って決めました」(Cさんの話)。


こうした、各集落ごとに創意工夫を重ねてきた自治の歴史、弱者への配慮。それに、よく聞くのは、遊びだったり、家ごとのかけひきだったり。


世界には、大きな歴史のストーリーから無視されている、地域社会の細かなしくみ、細かな「社会」が、たくさんある。そして、そうした小さな社会的しくみは、実は、思いのほかパワーを持っている。それが、大きな政治や社会のストーリーから無視されたがために、力を持っていないように見えているだけだ。それらの配置を換えること。それが僕らの仕事かもしれない。NGOやNPOの業界では「アドボカシー」(提言活動、権利擁護)という言い方が一般的になりつつあるが、本来のアドボカシーとは、こうした試みだろう。


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2008年

8月

20日

【24】インドネシア・船の旅と鶴見良行さん

一九八八年、僕らはチャハヤ・チュマラン号というおんぼろ木造船に乗った。インドネシア・スラウェシ島のウジュンパンダンという大きな町から、インドネシア東部の小さな島々を、頼りないチャハヤ号で航海した。


この一見無茶苦茶な航海を企画したのは、『バナナと日本人』や『ナマコの眼』で知られる鶴見良行さん。航海をともにしたのは、村井吉敬さん、内海愛子さん、藤林泰さん、それに、生態学者の新妻昭夫さん、漁村研究家の森本孝さんなど、総勢一七名。当時はたしか、二、三名以外は、みんな無職だった。お金はなかったけど、時間はあった。


新妻昭夫さんや森本孝さんは、そもそも鶴見さんや村井さんの旧知の人間ではなかった。新妻さんは当時アルフレッド・ウォーレス(ダーウィンと同時代の学者)に凝っていて、いろいろ文章を書いていた。森本さんは、当時『あるくみるきく』(民俗学者宮本常一が始めた雑誌。近畿日本ツーリストが資金を出していた)という雑誌の編集をやりながら、日本の漁村を歩いていた。そんな新妻さんや森本さんを、鶴見さんがどこからか見つけ出してきて、「一緒にやろう」と一本釣りしてきたのだった。鶴見さんの、そうした人集めのしかた自体がおもしろかった。


そして一九八八年七月、ウジュンパンダンに現地集合した僕らは、念願の木造船に乗り、三五日間の船旅に出航した。二日ほど航海して、着いた島でやはり二日ほど歩いて回る、というのを繰り返した。とにかくよく揺れる船で(ほんと、波がなくてもよく揺れた)、僕も含めて多くのメンバーが船酔いに苦しんだが、鶴見さんは、船に密かに持ちこんだお酒をちびちび飲みながら、一向に船酔いする気配がなかった。


インドネシアでも、東部に行くと、ジャワとかスマトラとかとはずいぶん違う文化が見られる。イモ食、サゴヤシなど、そうした東インドネシアの特徴が、僕らの目当てだった。サゴヤシは、その幹を砕いて、さらして、食用にする、という変わったヤシだ。加工するための道具もすべて地域の植物が利用されていた。サゴヤシと人とのすてきな関係に、僕らは大いにはしゃいだ。


「急がず、歩きながらゆっくり考えなさい」というのが鶴見さんの教えだった。チャハヤ・チュマラン号に乗ったあと、僕はボルネオ島やインドネシア東部を歩き、そして、やはり定点観測がしたいと思い、一九九二年からソロモン諸島に通いはじめた。


鶴見さんの短い文章に「ほしがた道とちぎれ道」というものがある。「ほしがた道」とは、「中央」につながる放射線の道のことである。それに対し「ちぎれ道」とは、地域と地域を結ぶ道である。まっすぐにつながらないで、あちこちでちぎれているから「ちぎれ道」。鶴見さんは、五島列島を歩きながら、チャハヤ号の旅で訪れたバンガイ島という小さな島を思い出し、「ちぎれ道」ということを思いついた。鶴見さんはこう書いた。「ちぎれ道を大事にしたい。それが地域の自立である」


[遊講座]「市民の学問、民の思想」

全5回 水曜18:30~20:30

7月23日鶴見良行と足で歩く東南アジア(宮内泰介)

8月6日松井やよりとアジア・女性・人権(本田雅和)

8月下旬予定【公開講演会】小田実と歩んだ20年(玄順恵)

9月3日高木仁三郎と市民科学(小野有五)

9月17日宇井純と反公害自主講座運動、水俣病(宮内泰介)


[北海道開拓記念館テーマ展]

テーマ展「鶴見良行、東南アジア・北海道を歩く」

会 期 : 7月 18日(金)~ 8月 24日(日)

会 場 : 北海道開拓記念館・特別展示室

関連事業

○講演会「チャハヤ号航海記」(宮内泰介)

7月20日(日)13時30分~15時30分

○フォーラム「鶴見良行の眼」(花崎皋平・新妻昭夫)

8月3日(日)13時~16時


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2008年

6月

27日

【23】プランテーション計画をめぐって

三月、一年ぶりのソロモン諸島に出かけた。通い始めて十数年経つ。何というか、親戚のおじさんがときどき訪れるといった状態。亡くなった知り合いも多く、当時の子供たちは立派な大人になった。その間、政治的にはいろいろあり、民族紛争もあったが、村の生活はほとんど何も変わらない。


今回は、その村の生活を大きく変えるかもしれない(いや、やはりほとんど変えないかもしれない)プロジェクトについての調査に向かった。アブラヤシ・プランテーションのプロジェクト。僕の調査地であるマライタ島の一角に、一万ヘクタールの広大なアブラヤシ・プランテーションが政府のイニシアティブで作られようとしている。僕がいつも通っている村から、車で二時間くらいのところだが、村にも、利害関係者がたくさんいる。


この手の計画は、前からソロモン諸島では浮かんでは消えしているから、僕も当初軽く見ていたのだが、昨年あたりから、どうもこのプランテーション計画がめずらしく〝順調に〟進んでいるらしいことがわかった。


見るところ、政府は地元住民に相当気を遣い、彼ら自身が言うとおり、「ボトムアップ」で計画を進めようとしている。それがたとえ、環境破壊と悪名高いアブラヤシ・プランテーションであっても、そのこと自体は評価できる。住民たちも、これまで開発問題がらみではいつも土地争いを繰り広げてきたのに、今回は争いごとも少なくわりあいスムーズに進んでいる。僕の見るところ、それにはいくつかの原因がある。民族紛争以降、争いに飽きてきた住民たちの厭戦気分みたいなものがそこにはあるように思えたし、また、このプランテーション計画に乗り遅れまいとする感覚も大きく働いているように見えた。


しかし、今回調査してみて、プランテーション計画にはいろいろな意見があることがわかった。当たり前のことだが、やはり環境について懸念する声も少なくなく(もちろんこの場合の「環境」は、彼らが畑を拓いたり、林産物を採集したりするものとしての環境だ)、少なくない親族グループ(土地に対する所有権をもっている)が、様子見の状態にある。先走った親族グループ、慎重な姿勢の親族グループ、計画に大きな期待を寄せる住民、懸念する住民、いろいろな幅がある。


もちろん決めるのは彼らだから、僕がこの問題についてどうこう言うつもりはない。というよりも、僕自身、こういう流れについて、明確に賛成か反対かということがはっきり言えなくなっている。それだけ地域社会の中に入ってしまったということかもしれないし、いや、単に歳をとったということかもしれない。それでもとりあえずウォッチングだけは続けよう。


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2008年

4月

28日

【22】北海道の戦後開拓を調べる

「遊」でここ何年か「調査ゼミ」を開いている。市民が自分たちで調べる、ということの可能性を追求してみようという講座だ。とくにテーマを決めない年が続いたが、今年度(二〇〇七年度)は、「戦後開拓」をテーマに据えた。


「戦後開拓」をテーマにしたのは、前から北海道の戦後開拓が気になっていたからだ。「戦後開拓」とは、終戦直後、日本政府により、食糧難対策と失業者・戦災者・復員兵・農家二・三男対策とを兼ねる形で計画されたものであり、その結果、全国で二〇万世帯(一九六四年までの累計)が、「未開拓地」の「開拓」に従事することになった。北海道への戦後開拓は、累計四万五三六五戸(全国の約四分の一に当たる)。しかし、戦後開拓事業が終了して二年目の一九七一年段階で残っていたのは一万三三八〇戸。三分の二は離農したことになる。


明治以来、日本政府は、膨大な数の人間を文字通り動かしてきた。北海道への移民、植民地への移民、海外への移民。そのことの意味は何だったのか、それを最後の移民政策の一つである「戦後開拓」で考えてみたい、というのがあった。


六人の受講者を得て、調査ゼミはスタート。みなさん、熱心だった。まずは資料を読み、概要を把握してから、みんなで聞き取りに向かった。


江別市に世田谷部落というところがある。名前の通り、世田谷区からこの戦後開拓で移住してきた人たちの部落である。たまたま調査ゼミにこの世田谷部落出身の人が参加していたため、僕らは、一緒に世田谷部落へ出かけた。三人ほど、開拓を経験した方が集まってくださり、僕らは、話を聞いた。Tさんは、「移住直後は、たいへんだった。洪水で水がついたジャガイモを干して食べた。人間が食べるものではなかった」と語ってくれた。しかし、そんな悲惨な話だけではない。部落で団結して生きてきた歴史を、きのうのことのように語ってくれた。


もう一ヶ所、僕らは、やはり江別市の東野幌部落へ向かった。ここの戦後開拓は、道外からではなく、近隣からの入植である。Kさんは、もともと、やはり戦後開拓である新野幌部落(野幌森林公園の中にあった)で小作として働いていたが、一九六〇(昭和三五)年、今のところに入植した。「戦後開拓」でも最も遅い入植である。「爆薬で伐根しながら、開拓した。ここは泥炭地だったので、どこでも歩いたら湿気っている感じだった。自分の青春は、毎日毎日排水掘りだった」


同じ「戦後開拓」と言っても、地域により、また、個人により、経験がずいぶん違うということが分かってきた。まだまだ調べることはたくさんあるなあ。


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2008年

2月

27日

【21】コウノトリと地域づくり

兵庫県豊岡市でコウノトリが野生復帰したという話は、今や旭山動物園や大間のマグロ一本釣りやギャル曽根の食いっぷりと並んで、テレビが好む話題となっている。とくに関西に行くと、毎日のようにテレビでコウノトリの様子が放映されている。


そんなコウノトリの野生復帰を手がけている兵庫県立コウノトリの郷公園から、池田啓(ひろし)さんを呼んで、昨年十月に北海道大学でシンポジウムを開いた。


池田啓さんは、もともとタヌキの専門家なのだが、文化庁でも働き、そして現職に至るという変わりダネの生態学者である。


日本のどこにでもいたコウノトリ。そのコウノトリが日本で絶滅してしまってから四半世紀が経つ。そのコウノトリを野生復帰させようという事業を、池田さんたちは、単にコウノトリの話だけにとどめなかった。「コウノトリを野生復帰させようと思って考えている田んぼというのは、本当のところは生産の場なのです。きれいだなあとか、メダカがいていいなぁとか、カエルが住んでるんだなあとかいう場所ではなくて、米を作る場所なのです。この米を作る場所のことを考えない限り、コウノトリのことは考えられない」。つまり、「コウノトリの野生復帰とは、実は地域社会をどのようにして再生していくかという問題でもあったのです」。


農薬を大量に使う田んぼでは、コウノトリは生息できない。そこで豊岡市では、コウノトリにやさしい農業を模索している。もちろんそれが単に農家の負担になるだけでは意味がない。コウノトリを育んでいる田んぼでとれたお米であるということをブランド化し、農家にもメリットがあるようなしくみを作った。


その豊岡市で、二〇〇四年、水害が起きた。バスの上で一晩明かした人たちの映像が全国に流れた。もともと洪水が起こりやすい地形だった。池田さんたちは、一見コウノトリと関係なさそうなこの水害の問題にもかかわりはじめる。そうやって調査を始めると、昔から家が建っているエリアは、洪水が起きても大丈夫なような土地を高くして家を建てていることが分かった。荒ぶる自然を受け入れるこうした知恵が、つまりは、コウノトリの野生復帰とつながるのだ、と考えた。「有益な自然のみとやっていくということではなく、その地域に固有の荒ぶる自然も引き受ける必要があるのではないか、ということです。そういう姿勢を持つと、実は、田んぼというのは米を作るところだというような均一な価値ではなくて、田んぼにいざとなったら水を入れることによって、遊水地にすることによって、洪水も防げるか、あるいは田んぼに生き物が戻ってくるという生物多様性という価値も田んぼの中に見出せるかもしれない。そうやって、価値を多元的に見ることによって、余裕を持つことによって、さまざまなもの、GDPに換算できないものを私たちは引き受けることができるのではないかという風に考えます」


コウノトリの野生復帰から始まった活動は、こうやって必然的な流れとして、地域づくり全体へ広がっていった。池田さんはこのことを「狂言回しとしてのコウノトリ」と呼んでいる。


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2007年

12月

23日

【20】ドナウ・デルタ

この九月、ルーマニアに行ってきた。ヨーロッパに行ったことがなく、しかもルーマニアと言えばコマネチとチャウシェスクしか知らなかった僕が、ルーマニアに行くことになった。


お目当ては世界遺産ドナウ・デルタ。ドイツ南部から東ヨーロッパを流れに流れ、最後黒海に注ぎ込むドナウ川。その河口に広大な(東京都と同じくらいの面積)湿地が広がっていて、それがドナウ・デルタだ。


それにしてもルーマニアは英語が通じない。でも、ルーマニア留学経験がある大学院生のH君に助けてもらいながら、何とかドナウ・デルタまでたどりついた。ドナウ・デルタの陸側の入り口であるトゥルチャという町に着くと、あとは船しかない。


船に乗った百人以上の客のうち、半分くらいが地元の人、半分くらいが観光客だった。観光客は、ルーマニア人の釣り人ばかり。世界遺産なんだし、ヨーロッパ各国は地続きなんだし、もっと外国からのツーリストがいるものだと思っていたら、全然いない。エコツアーはほとんどないようだ。その分、国内各地から釣り人がやってくる。ドナウ・デルタは魚の宝庫なのだ。釣り人たちは、民宿に泊まったり、キャンプを張ったりして、ビールを飲みながら、ゆっくりと釣りを楽しむ。


僕らの目当てはヨシ(葦)だった。宮城県の北上川河口地域でヨシの調査をしている僕らは、ヨシ好きが高じて、こうなりゃ世界のヨシを見てやろうやないか、ということになった。最近ヨシによる茅葺き屋根が金持ちのステータスとして人気だというヨーロッパ。そのヨーロッパのヨシ原はどこにあるのだ、と探すと、どうやら最大のヨシ原が広がるのはドナウ・デルタだということがわかった。たまたまH君がルーマニア語ができたので、じゃあ行こう、ということなった。


僕らも民宿(ペンシオーネという。日本のペンションにそっくり)に泊まり、ボートをチャーターして、ドナウ・デルタの水路めぐりをした。どこまでも広がるヨシ原、ヨシ原、ヨシ原。水路では、地元の人たちが魚を捕るための仕掛けをしている。網やカゴを使った素朴な漁業だ。そして、鳥。世界中の水鳥がここに集結しているんじゃないかと思うばかりの多様な鳥が、お互いの群れ同士からみあうかのように、乱舞している。鳥にとってここは天国に違いない。世界的に有名なのはここのモモイロペリカンだが、動物園で地上に立っているペリカンしか見たことがなかった僕らは、空高く群れをなして飛ぶペリカンを、ほう、と眺めた。


日本のように世界遺産だと言って大騒ぎすることがないのは好感が持てるが、しかし、世界遺産であることで、ルーマニア政府は、このドナウ・デルタの「自然を守る」義務を負い、政府直轄のドナウ・デルタ管理局を設けている。そのことは、地元の人たち、とくに漁師たちといくらかコンフリクトを生じているようだ。管理局の役人は、そのはざまで苦しんでいるようで、「(自然保護という)ヨーロッパ・スタンダードと地元の現実との間にはギャップがあり、それをどう埋めるかが難しい」と語ってくれた。


それはひとりドナウ・デルタの問題ではなく、今年EUに加盟したばかりのルーマニアがかかえるさまざまな問題も象徴しているようだった。急速に自由経済へ移行したルーマニアでは、たとえば僕らがドナウ・デルタで出会ったおじさんが言っていたような、「チャウシェスクの時代の方がよかった」、という意見が少なくないという。

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2007年

10月

26日

【19】開拓とイヌワシ

このコラムで何度か書いてきた、宮城県旧北上町(現石巻市北上町)での調査の話。


北上川の河口地域にあたる旧北上町で、僕らは聞き取り調査を続け、地域の人たちと自然環境とのかかわりを追いかけてきた。その成果をようやく一冊の冊子に仕上げ、この夏、お世話になった人たちに配って回った。『聞き書き 北上川河口地域の人と暮らし』と題したその百頁余りの冊子には、六人の方の聞き書きと関連する五つのコラムを載せた。川とのかかわり、湿地とのかかわり、山とのかかわり、など地域の自然と人のかかわりが多角的に浮き彫りになるよう工夫した。役場の教育委員会の方に協力いただいて、石巻市全域の学校や社会教育関係などに配布してもらうことにした。


その中にも登場していただいた武山武志さん。武山さんは、昭和二三年、日本政府による戦後開拓の政策の中で、地元の奥山へ開拓に入った。僕らはこの奥山の開拓跡地にまだ行ったことがなかったので、武山さんに冊子を渡しついでに、連れて行ってもらうことにした。


この地はイヌワシの生息地として知られる山でもある。翼を広げると二メートルにも達するこの鳥は、日本最大の猛禽類にして、絶滅危惧種である。武山さんは言う。「センセイたちの調査をきっかけに私自身も開拓の記録を記録しようと、記憶をたどって文章をまとめたんです。それが隣町の教育委員会の人の目にとまって喜ばれましてね」。なぜ? 「イヌワシなんですよ。なぜこの山にイヌワシが定着したか。開拓が大きいんじゃないかと言うんです。開拓で土地を拓き、作物を植え、それを餌にする小動物が増えましてね。それがイヌワシにとっての獲物が増えたことになり、イヌワシがここに定着したのではないかと言うんです。その開拓についてこれまで実態が分からなかったのが、私がまとめたことで分かり、イヌワシ保護のための基礎資料としても役立っているというわけです」


武山さんたちが開拓に入る前の山は、ススキが各所に広がる山だった。山沿いの集落が、自分たちで利用するために茅場としてススキを保全していたエリアだ。定期的に火入れをして、雑木が生えてこないようにしていたという。その地を利用して、武山さんたちは開拓に入った。政策変更にしたがって、武山さんたちが山から下りてきたあと、山には、大量のスギが植えられることになった。イヌワシにとって見れば、人工林だろうが天然林だろうが、森があまりうっそうとしていると、獲物を得るのが困難になる。イヌワシのためにもう一度草地を復活させようかという話も地元ではある。


僕らは武山さんに連れられて、昔武山さんの家があった場所までたどり着いた。一面の杉林である。ここが一面畑だったとは想像つきにくい。わずかに段々畑あとが地形として残っているくらいだ。それに開拓当時立てた風力発電のやぐら跡が残っている。「今ではこうやって杉ばかりになってね、沢は枯れてしまいました」と武山さん。たしかに、沢にはちょろちょろとしか水が流れていない。「開拓のころは水は豊富で、ヤマメがよく捕れたんですがね」


人がそこに住むということと自然の営み。都会に住む私たちが考えるほど単純なものではない。武山さんは、水について、イヌワシについて、自分の体験から、現状を憂える。僕らはそこからいろいろと学びたい。

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2007年

8月

23日

【18】宇井純さんのフィールドワークと学問

先日(六月二三日)、宇井純さんを偲ぶ集会が東京で開かれた。東京大学で開かれた午後の集会には千人近くが集まり、夜の懇親会も広い会場がごったがえす賑わいだった。


「那須の自然に学ぶ会」(栃木)の早乙女順子さんは、その集まりでこう語った。「産廃問題で、宇井さんを呼んだ。宇井さんは、素人の私たちに、運動の作り方から教えてくれた。“大人の男はダメだから、婦人部を作れ、青年部を作れ。それから、産廃の実態をちゃんと地図に落として調べなさい”とおっしゃった」。


集まりでは僕も少し発言させてもらった。その準備もあって、僕は四月から五月にかけて、宇井さんが残した文章を六〇年代からたどっていった。正直、驚いた。僕らが、環境と社会とのかかわりについて、あるいは調査研究のあり方について、現在さまざまに議論していることを、宇井さんはすでに六〇年代から言っているのだった。公害反対運動の主導者としての側面が社会的にクローズアップされ、僕らは他の宇井さんの側面を見落としてきているのではないか。そう思った。


宇井さんは、一貫して自身を「技術者」と規定してきた。しかしその「技術」が公害を生み、水俣病患者を生んでいる現実を前に、近代科学技術批判をせざるをえなくなる。「技術者」を自認する宇井さんとすればそれは抜け道がなくなるように思えるが、そこで宇井さんは、一見迂回路に見える「フィールドワーク」の手法をとることになる。それが宇井さんの六〇年代の水俣調査であり、『公害の政治学』という名著を生んだ。


そして、そこからさらに、歴史を重視するという姿勢も生まれた、と僕は見る。とくに足尾、荒田川、日立鉱山という明治・大正期の公害とそれを克服すべく取り組んだ住民たちの営み、さらには同時代の公害反対運動から芽生えた住民自身による調査学習活動から宇井さんは学んだ。そして、そこにこそ新しい科学、新しい技術の可能性があると考えた。定量的な分析を旨とする近代科学技術へ、公害の現場から疑問を投げかけた宇井さんは、六〇年代末にヨーロッパで学んだ汚水処理技術もあいまって、一九七〇年代に「住民が作る科学」「住民運動が作る適正技術」という主張と実践を始める。


宇井さんは、一九八〇年の日本物理学会のシンポジウムで、「公害問題を見る限り、拡散の微分方程式などを使って住民を煙に巻く科学と、漁民や現地住民被害者の実感をとりいれていく科学と、どうも二通りの科学があるように思えてなりません」と発言し、住民運動が作り出すものこそ科学なのだ、と言った。


僕らは現在、環境問題その他の社会的な問題について、市民・住民自身が調査すること(市民調査)を重視し、それをエンカレッジするしくみ作りを考えている。その点でも偉大な先駆者であった宇井さんから学ぶべきこと、まだまだ学び切れていないことは、たくさんある、と感じている。“現場を重視し、問題解決を重視し、さまざまな方法論を組み合わせた、市民・住民主体の適正学問”のために宇井さんの足跡に学ぶべきことはたくさんある。宇井さんが六〇年代に行った水俣調査の意味を僕らはまだ十分には消化しきれていないのではないか。宇井さんが六〇年代から始めた栃木の川の水質調査もまだ十分に検証しきれていないのではないか。宇井さんが行ったフィールドワークの意味、宇井さんが歴史を重視した意味、宇井さんが「住民が作る科学」「適正技術」を主張したことの意味を、僕らはもう少し考えつづける必要がある。


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2007年

6月

28日

【17】村の識字学校

ソロモン諸島マライタ島のSさん(女性。推定三五歳)は、以前日本からの友人を受け入れてもらったこともあり、僕が村で親しくしている一人だ。小学校を出たあと村にいたが、二〇代のころに町へ出てお手伝いさんとして働いた。しかし、結婚して子供が生まれると村に戻ってきた。数年前に夫と別れ、今は畑で働きながら、子どもと暮らす日々だ。


そのSさんが、昨年から識字学校を始めた、と聞いて、僕は少し驚いた。村の中で特別学歴が高い女性でもないし、人前で積極的に話すようなタイプでもない。Sさんは、二〇〇三年、近くの村でNGOが開いた識字教育のワークショップに参加し、それをきっかけに村で識字学校を開いた。


周辺の十あまりの村々から女性たちが集まってくる。年配の女性だけでなく、若い女性も多い。女性たちに混じって数名の男性もいる。彼ら/彼女らは、程度の差はあるものの、非識字である。集まって来た女性たちの中には、僕の知り合いも何人かいて、僕は彼女たちが非識字であることをうかつにも知らなかった。ソロモン諸島の識字率は六二%(男性六九%、女性五六%)。


もともと文字を書く文化ではなかった。しかもソロモン諸島には百ほどの言語がある。現在ソロモン諸島で「識字」とは、英語や共通語のピジン・イングリッシュについての読み書きができるかどうか、ということを指している。


村の識字学校は、週二回の午前に開かれている。先生はSさんを含めて四人(うち二人は若い女性)。現在七〇名ほどの受講者がいる。八時始業のところ、実際に受講者たちが集まったのが九時近くというのは、まあソロモン・タイムだからしょうがない。授業開始の前に「識字の歌」というのをみんなで合唱する。


「識字は私たちを助ける/識字は私たちを強くする/識字は私たちを支える/たとえ学校に行っていなくても/たとえ読み書きができなくても/識字で私たちの技能は発展する/識字があってはじめて発展がある」(一部省略)


そしてレベル別に四つの教室に分かれて授業が始まった。机も椅子もない。教室になっているのは教会の簡易なゲストハウスで、そこにみんな地べたに座ってノートとペンのみで勉強している。日本語の五十音にあたるような表を作ってそれをみんなで「a-e-i-o-u、ka-keーki-ko-ku」と読んでいったり、「ka」のつく言葉をいくつか挙げてみましょう、ということをやったり、と素朴だがそれなりに工夫された授業になっている。読み書きだけでなく、簡単な算数も教えている。Sさんも、決して教え慣れているとは言えないものの、一生懸命にやっている。


教え方云々より、僕は、こうやって女性たちが集まって、勉強し、自信をつけていくことの方が大事なのではないか、と考えた。幸いに、夫たちの理解もあるらしい。「識字の歌」がその通りになることを僕は願っている。


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2007年

2月

27日

【16】宇井純さんという奇跡

宇井純さんが、昨年11月11日、亡くなった。享年74。


宇井純さんを初めて見たのは、僕が大学に入学して、宇井さんたちがやっていた自主講座というものに友人のすすめで参加してみたときだった。初めて見る宇井さんは、とにかくよく話す人だった。田舎から出てきて東京でいろいろと学ぶことを期待していた僕は、ここにこそ学ぶべきものがあると感じて、以降この自主講座に出席しつづけた。出席して、そこに置かれていたチラシの集会にも出たりしてみることになった。次第に、市民運動が僕にとっての学校になった。


そのうち、僕は、自主講座のグループの一つ「反公害輸出通報センター」(のち、反核パシフィックセンター東京と改名)にかかわるようになった。一九八四年ごろだ。宇井さんと直接の接触がそう多くあったわけではない。しかし、僕は宇井さんの影響を直接間接に受けた。


宇井さんはよく「自分は技術屋だ」と言っていた。修士課程まで応用化学(プラスチック加工技術)を学び、博士課程以降は土木工学(下水処理技術)が宇井さんの専門だった。しかし、その大学院生時代から水俣通いが始まった。石牟礼道子さん、原田正純さん、桑原史成さん(写真家)、そして宇井さんといった人たちが、まだお互いに出会っておらず、ばらばらに水俣病の被害者の間をうろちょろしていた時代である。宇井さんの嗅覚は、しかし、水俣に日本の社会にとっての根本的な何かがある(あるいは科学にとっての根本的なものがある)と感じとり、そして、とにかく現地で資料を集めまくった(宇井さんは資料収集魔だった。その膨大な収集資料は、現在埼玉大学共生社会研究センター http://www.kyousei.iron.saitama-u.ac.jp/ にある)。この水俣での資料は、その後新潟水俣病の運動でもそうとうに活かされた(と、新潟水俣病の裁判を担った坂東克彦弁護士がこのあいだ語っていた)。


宇井さんは、現場から、技術の問題と政治・社会の問題をリンクして語ることができるという意味で、まさに希有な人だった。


宇井さんは、一九七〇年、大学の研究と社会をつなげることを考え、東大自主講座を始めた。現在サイエンスショップと呼ばれているもののまさに早すぎる先駆けである。そこには、予想をはるかに上回る人が集まり、すぐさま実行委員会が結成された。この実行委員会は、宇井さんの述懐によれば、これまで経験していた大学や運動の世界とは違う、議論より手足が先に動く人たちの集まりだった。講義録を印刷するために自分たちで印刷機を導入し、あげくに印刷会社まで作ってしまった人たちも現れた。宇井さんが日ごろ言っていた「自分の地元に帰ってそこで高校教師か何かになって調査をしよう」という教えを守って、地方に散らばる者たちも現れた。イデオロギーを語るのではなく、運動を「実務経済的」(当時の宇井さんの言葉)に進めていく、という、現在のNPOに通じるようやり方は、このころの自主講座の新しさだった。


宇井さんは、自分のたどってきた道について、比較的多く書いたり語ったりしているのだが、それでも僕は、宇井さんの発想とパトスがどこにあったのか、わかりにくい部分が多い、と感じている。嗅覚とか感性としか言いようのない何かを感じる。その意味でやはり、宇井さんは、戦後最大の奇人変人であり、また奇跡だったと僕は勝手に考えている。


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2006年

12月

25日

【15】栗拾いの生活を聞く

いろいろな暮らしがあった。そのあたりまえなことを、僕らが3年ほど続けている宮城県旧北上町(昨年石巻市に合併)での聞き取りは教えてくれた。


たとえば、栗の話。山あいの女川(おながわ)集落で、Sさんは語ってくれた。


「秋になって栗の落ちる時期になるとね、夜のうちに、提燈つけて栗を拾いに行くんだ」。夜に? 提灯を付けて? 「早く行って拾うためにね。みんな競争になっちゃうんだ。だから朝4時くらいに行くんだ。落ちる状況を判断するの、明日落ちるとか、明日の朝落ちるとか、今夜落ちるとか。天気悪くなると、あぁ明日雨だ、今夜雨だ、って。雨降るとなおさら興奮するの。雨降るとその後風吹いて落ちるからね」


女川集落では、昭和25年くらいまで、こうやって栗を拾いに行く習慣があった。山あいの集落で、平地が少ない女川は、さまざまな手段で食料を確保しなければならなかった。その一つがこの栗拾い。「1回にメリケン袋1袋とか1袋半とかを持って帰ってきた。ご飯さ入れて栗ごはんにしてね。それから、煮て干して子どもたちのおやつにした。今みたいに、何も食うもんないんだからね」。どんなふうに干したんですか? 「つるして干すんです、干し柿干すみたいに。干すのが面倒は人は、むしろで干したね。拾ってきた栗を、廊下にむしろさずーっと奥まで敷いて干したのさ。そして、そのままぷちぷち、落下豆食うみたいに、食べるのです。今みたいに何もないから、学校から帰ってから、一斗缶さ入っている栗をポッケさつっこんでね、遊びに行ったのものです。そういう生活でしたね、小さいころは」


栗は、貴重な収入源でもあった。「拾ってきて、石巻方面さ小遣い稼ぎに売りに行くのです。個人の家に一軒一軒回ってね。市場も何もそのころないから、山菜でも何でもね、フキでもワラビでもとってきて、そうやって売ったんです」。栗の木の幹は屋根にもなった。「俺たちのじいさんの時代はね、栗は屋根にもなった。コバ葺きと言ってね、栗の木を割って葺いたらしい」


女川の人たちの山とのかかわりは次第に疎遠になってきた。それでも山のことを心配している。「今は山には山菜採りで入るくらいだね。山には入っていちばんに思うことは、昔みたいに人さ入らないから、道が今途切れてしまった。炭しょって歩いたころには、かきわけなくても、走ることができたくらいだった[この集落は炭焼きがたいへん盛んだった]。裸で歩いても大丈夫なくらいだったが、今はとてもじゃないけど。それから、入り口にはゴミの不法投棄ね。奥へ行くと今度は沢が荒れてんだね。なぜ荒れているのかというと、人が入んないからだね。小さい沢の変化はすごいなあ、と思いますね」


Sさんの経験や思いを、単に「昔話」として博物館にしまい込んでしまうのでなく、何か私たちの今後に生かせないか。いろいろ考えながら、しかし、ともかくも、僕は聞くことを続ける。


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2006年

10月

24日

【14】戦後開拓の記録

宮城県北上町(昨年石巻市に合併)の人々の話を聞き始めて三年。地域の人々と自然環境との関係を追いかけた僕らの調査(大学院生たちとの共同調査)は、そのテープ起こしのノートだけでもかなりの分量になってきた。いくらか地元にお返しがしたいと、聞き書きの冊子づくりを考えた。人々に聞いた大量の話の中から、いくつかのテーマをピックアップして、聞き書きとして載せるというものだ。地域の人たちに読んでもらえるよう、読みやすいものをと考えている(模範になったのは、茨城県の里山保全にかかわる市民グループが作った『聞き書き 里山の暮らし ~土浦市宍塚~』という本だった)。


炭焼きに従事していた人の話、ヨシ(葦)の仕事にたずわった人の話などが並ぶ中で、一人、「戦後開拓」の話を語ってもらった人がいる。戦後すぐ、日本政府は、植民地からの帰還者や復員兵の仕事作り、食力増産などを目指して、日本各地の未開拓の土地を開拓する、という大きな政策をかかげた。北上町の武山武志さんは、昭和二三年、そうした政策の中で、地元の奥山へ開拓に入った。当時中国から復員してきた武山さんは、役場に入ってこの開拓の旗振り役をしていたのだが、自らが開拓に入ることになったのである。「国の命令だったのね。その第一線に出たんです。あまりに真面目だったのです。自分で開発計画を立てたからね、自分で行かなければということになって」。


開拓に入った武山さんは、雑木林を焼き、畑を作り、のち養蚕や畜産、それに苗木作りなどを組み合わせて、生活を成り立たせていった。以来、政府の政策転換によって山を下りるまでのまで十二年間、山奥での厳しい開拓生活を武山さんは送った。


僕は、この武山さんの体験も冊子に載せようと、短い聞き書きにまとめた。武山さんは、その僕のまとめを見て、十分に自分の体験が書かれていないと思ったのだろう、自ら、B5版十三ページに小さな文字でぎっしりとその体験を書いて僕に見せてくれた。もともと、町史の編纂委員にもなった地域の文化人である。しかし、自分のその体験については文章化してなかった。「開拓の記録はいつかしておかなくては、と思っていたのですが、どうすればいいか分からなかったので。センセイの作ったのを見て、こうすればいいのかと思い、自分で書いてみました」。


武山さんが自分で開拓経験を書いたことを僕はとてもうれしく思った。そんなきっかけを作ることになっただけでも、調査をしてきた甲斐があった。


それにしても、日本中で行われたこの戦後開拓という壮大な実験は、まだ十分に総括されていない。実は北海道はこの戦後開拓が最も大規模に行われたところである。北海道での調査もそのうちにやらねば。誰かいっしょにやる人いませんか?


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2006年

8月

23日

【13】琵琶湖を知りつくした研究者

4年ほど前、知人の女性研究者に連れられて、琵琶湖周辺を歩いたことがある。


本庄という琵琶湖東岸の集落では、集落中に張りめぐらされた水路を案内してもらった。一見しただけではよく分からないのだが、この集落には3つの系統の水路があって、それぞれ自主管理されている。集落の責任者が水門の開け閉めを担当し、年に何回かの泥さらいは全員で行う。そうしたことを長く続けてきた。そんなことを、知人の研究者に教えてもらいながら、僕は歩いた。


知内(ちない)という古い集落の宿では、自治会の人の案内で、集落の文書が眠る小さな倉庫を見せてもらった。250年の間、集落の人たちが記録してきた文書がぎっしり置かれている。村の文書がこんなふうに村人たちによってちゃんと保管されているのを僕は初めて見た。250年の間、ほぼ毎日、集落の長は、村の日記を書き続けた。知人の研究者たちは、それを掘り起こし、村の人びとが長い歴史の間に直面したさまざまな問題を解き明かそうとしている。


びっくりするのは、琵琶湖周辺のこうした集落を、その研究者はほとんど回っていることだ。あそこの集落はどう、あそこの誰はどう、と実によく知っている。一緒に回っている間にも、彼女はいろいろな人を訪れ、その皆が、彼女を親しげに迎えていた。


ただ訪れて話を聞くだけでなく、住民たちの活動を応援し、鼓舞してきた。長く琵琶湖博物館という博物館の学芸員だった彼女は、琵琶湖周辺の住民たちといっしょにホタル調査にたずさわったこともあった。調査する中で、水が汚れているからいるはずないと思っていたホタルが、実は案外いることを、住民たち自身が発見していった。きれいな水より少し汚れた水をホタルは好むこともわかった。地域の宝を発見することで、地域に愛着を持つ。そうした発見とまちづくり活動を、彼女は住民とともに楽しんだ(この調査は『みんなでホタルダス――琵琶湖地域のホタルと身近な水環境調査』として出版されている)。住民たち自身が調査することの意義を彼女は実践的に証明していった。


この知人の研究者の名前は、嘉田由紀子さん。先日、彼女は滋賀県知事になった。


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2006年

6月

25日

【12】新潟水俣病から

何か問題があって、それを解決するための運動はどうあるべきだろう。解決とはいったい何だろう――。


環境社会学会という学会の準備のため、この4月、初めて新潟を訪れた。新潟水俣病の研究を長く続けている立教大学の関礼子さんに連れられ、やはり新潟水俣病の問題に長くかかわってきた旗野秀人さん(新潟県安田町在住)に出会った。話題になった映画「阿賀に生きる」の仕掛け人として知られる。本人も最近「阿賀野川 昔も今も宝もん」という映画を撮っている。本業は家業の工務店の「専務」。


旗野さんは水俣病の患者さんたちからいろいろなことを教わったと語る。患者さん支援の活動を一生懸命していた旗野さんは、あるとき患者さんの一人にこう言われる。「患者のためにがんばるのもいいが、ちゃんと仕事しなければダメだぞ」。旗野さんは、運動の専従という選択肢もあったのだけれど、家業に戻る。「そういうことを言ってくれる人がいたんだ」と旗野さんは感謝するふうに当時を振り返る。


患者さんたちが水俣病認定棄却を不服として起こした行政不服審査請求では、その口頭審理で、あるおばあちゃんが延々と身の上話をするのに旗野さんは出会う。「私は川向こうから船に乗ってこちらに嫁いできました。結婚式のときに初めて連れ合いの顔を見たら、結構いい男でした」云々。また、あるおじいちゃんは「反論書」に自分の好きな川魚の名前を並べる。患者さんたちにとっての水俣病とはそういうものだった。「民俗学の世界なんです」と旗野さん。生活全体や地域全体の中で水俣病を語り、かかわるということ。旗野さんが好んで使う「それぞれの水俣病 それぞれの阿賀野川」という言葉に僕は大きな示唆を感じる。


旗野さんは水俣の川本輝夫さん(熊本水俣病の患者リーダー)に言われてお地蔵さんを作る。水俣に一体送り、新潟に一体置く。新潟では虫地蔵の隣に置かれた。そこに患者さんたちや地域の人たちが来て手を合わせる。そこからまた物語が生まれる。物語、というのが、旗野さんと話していて浮かび上がってきたキーワードだった。


地元新潟県安田町の患者さんたちが集まる花見の会に僕も出させてもらった。患者さんたちはずいぶん旗野さんを頼りにしている。家族ぐるみでつきあっている関礼子さんも含めて、花見の温泉宿では、ゆったりとした時間が流れていた。旗野さんの現在の活動グループ名は「冥土のみやげ企画」という。

(旗野秀人さんが書いたものの多くは、http://www.hanga-cobo.jp/hatano/に掲載されています)


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2006年

5月

24日

【11】洪水を楽しむ

「バケツをひっくり返したような」という形容は、誇張ではない。僕がソロモン諸島マライタ島で出会った雨は、空の底が抜けたかのような雨だった。怖い、と思った。降りつづけた雨は、川をあふれさせ、僕らがいつも使っている道はすっかり川の中にのみこまれてしまった。


そんな中、ジェヒエル・メテさん(60歳)は“出動”した。カヌーを漕いで、川の真ん中へ向かった。子供たちも騒ぎ始めた。恐怖の声ではない。歓喜の声だ――。


メテさんは、流れてきた大木に追いつき、カヌーから乗り移った。そして、勢いよく川が流れる中、その流木を岸へ誘導した。


メテさんの娘たちも、別の流木めがけて出動する。岸にいる僕らはやんやの喝采を送る。


流木は、貴重な薪材である。メテさんの村の近くの森は、薪用になるような木が少なくなり、いつもなら、薪を求めて遠くの森まで歩いていかなければならない。それが今日は向こうからやってきてくれているのだ。千載一遇のチャンス、とメテさんたちは木をつかまえようとする。


隣の家のディナさんは、「メテはもう年寄りなのにすごい」と素直に感嘆し、「自分にはあそこまでできない」と言いつつ、ちゃっかり岸に打ち上げられた小枝を拾い集めた。メテさんが勇猛につかまえた流木に結局のところ匹敵するくらい量の小枝を集めてきていたから、ディナさんもなかなかすごいのである。


日本では、洪水は完全にシャットアウトすべきものとして、ダム工事やら堤防工事やらの治水事業が国家の手によって行われてきた。しかし、洪水は本当にすべてダメなのかこのあたりについて、僕は、大熊孝『洪水と治水の河川史』に多くを学んだ)。


マライタ島の人たちは、洪水を楽しんでいた。洪水を楽しみ、水害を軽減し、できればそこからちゃっかり利益も得るような、そんな川とのつきあい方を、日本でもできないだろうか。


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2006年

3月

24日

【10】人の歴史

札幌にも来たソロモン諸島のエディさんから、ジョナサン・リンギアさんさんが亡くなった、という手紙を受け取った。


ジョナサンさんは、1923年生まれで、僕が1992年以来お世話になっているソロモン諸島マライタ島アノケロ村の“長老”だ。


地域の歴史を村人たちに聞こうとすると、きまって「そういうことなら、ジョナサンに聞きな」と言われ、僕は何度も何度もジョナサンさんの家に足を運び、話を聞いた。ジョナサンさんがまだ元気だったころは、畑から帰ってくるのを待って話を聞いた。少し体を悪くしてからのジョナサンさんは、家の前の土間(そこは村人がよく集まってくるところでもあった)でパンダナス(アダン)のマットを奥さん(3番目の奥さんだ)と一緒に編んでいたので、そこで話を聞くことが多くなった。そんなときは、子供たちも自然に集まってきて、ジョナサンおじいちゃんの話を一緒に聞くことになった。


ジョナサンさんは、まだ10代のときに、2年間ほど、島外のココヤシ・プランテーションで働いている。


「キロックという白人のプランテーションで働いた。キロック氏はきつい人で、働かないとぶん殴られた。自分たちは白人の下で働くのが嫌だったが、植民地政府が課した人頭税を払うためにはしようがなかった」


ジョナサンさんの話のハイライトは、ソロモン諸島で吹き荒れた、マアシナ・ルールという自治運動(1944~49)だ。


「島のある指導的な男性がこの運動を始めた。彼はこう言ったのだ。《白人たちは私たちを抑圧してきた。私たちを奴隷として扱ってきた。私たちは自分たちの政府を作らなければならない》。彼のメッセージは、村々を伝って、この村にもやってきた。私たちはイギリスによる支配から自由になりたかったから、それを聞いてみなうれしかった」


ジョナサンさんは、このマアシナ・ルール運動に深く共鳴し、村で若者のリーダー的な役割を演じる。しかし、1949年、運動は弾圧され、終結する。ジョナサンさんも捕らえられ、監獄へ送られた。その後のジョナサンさんは、村に住みつづけながら、ソロモン諸島の社会変動を見つめてきた。


これは、単なる僕の感傷的な思い出話ではない。ジョナサンさんにはいろいろな話を聞いたが、そこには、いつもたくさんの個人名が出てきた。何か巨大なものが動かす歴史ではなく、人々の歴史がそこにはあった。ジョナサン・リンギアさん自身の人生も、そうした歴史そのものだった。


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2006年

2月

20日

【9】語り継ぐこと

正月を郷里で過ごした。愛媛県松山市のはずれ、旧小野村地区というのが、僕の生まれ故郷だ。近郊農村だったこの地も、今や松山市のベッドタウンと化し、大規模なショッピングセンターもできている。


1930(昭和5)年生まれの父と、1996年生まれの娘と一緒に、このふるさとを散歩した。僕は娘に「田舎」を説明する。田んぼを歩きながら「以前はこの時期にレンゲを植えてたんだよ」とか、田んぼの中の小さな祠(ほこら)を指して「ほら、田んぼの中にも小さな神様がいるんだよ」とか、溜め池の縁を歩きながら「これは自然の湖じゃないんだ。田んぼに水を引くために昔の人が作ったんだよ」、とか、何だか「教育的な」説明になる。父の話はもっと実体験にもとづく。溜め池の横で、父は孫に「おじいちゃんはこの溜め池で泳ぎをおぼえたんだ。あそこから向こうのところまでよく泳いだもんだ」と語る。


父は、僕と娘を、「宮内家」のもともとの墓の場所に連れて行く。高台の墓地から眺める旧小野村地区は、ちょっとした棚田になっていて、なかなかの景観だ。墓地近くの溜め池も、カモなどの水鳥が多数いて、ひょっとするとラムサール条約だって可能かもしれない(とやっぱり「環境保全」的な見方になってしまう)。「ところで、この墓地の土地って誰のもの?」と父親に聞くと、「さあ、たぶん部落が所有しているんだと思うがなあ」。僕は「それはおもしろそうだ」と調査してみたい気分になってきた。父によると「お墓委員会」というのも地区にあるらしい。田舎はいろいろおもしろい。


別の機会に父に聞いた話。「昔は田んぼのあぜに豆を植えていて、あぜ豆って呼んでいた。以前はそれが結構もうかった、米よりもうかったこともあるって、そう、親父がよく言ってたなあ」。父はその父親(僕のおじいちゃんだ)からの話を、なつかしそうに話す。


こういう光景は、各地の調査でもよく出会ってきた。日本でも、沖縄でも、ソロモン諸島でも、「そういえば親父がそういうことをよく言っていたなあ」という語りに、僕はよく出くわしてきた。


そうやって、地域の歴史は語り継がれてきた。僕は娘に何をどう伝えていけばよいのだろう。


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2006年

1月

24日

【8】調査者の使われ方

愛知に行ってきた。森林保全の先進的な取り組みを見ることが目的だった。


矢作川、庄内川という愛知の2つの大きな川の上流で、「森の健康診断」という試みが今年行われた。長く手入れがなされていない人工林の状況を市民の手で把握しようというものだ。森林ボランティアの経験がある市民がリーダーになり、4~5名のグループが、あらかじめ定められた数カ所ずつポイントで人工林の現況について調査する。素人がお金をかけずに、しかも楽しくできるように工夫された調査だった。それぞれ約200名の市民の参加を得て、かなり広範囲な森の現状が把握でき、今後の政策のためのデータとしても貴重なものが集まった。


(「森の健康診断」の詳しくは、http://www.eic.or.jp/library/pickup/pu051201.html 参照)


ありそうでなかったこの画期的な取り組みが実現するには、何人かのキーパーソンが存在した。そのキーパーソンたちに名古屋の某所に集まっていただき、一度に話を聞く機会に恵まれた。おもしろいことに、どの人も長い市民運動の経験を持っていた。インタビューの最中、彼らは、ぼくらが聞いているそばから、自分たち自身で運動をふりかえり、ああだこうだと議論を始めた。彼らは今、流域から海を含めた広いエリアでの共同の取り組みを模索しているのだが、その話をしているときに「“いっせい行動”の経験が大きかったね」という話が出た。“いっせい行動”? 僕はその名前を知らなかった。正式名称は「健康と環境を守れ!愛知の住民いっせい行動」。1976年から、毎年1回、さまざまな環境問題に取り組む市民が、県知事や市長たちと一度に会い、要請項目を出し、その場で回答を得るというもので、今も続いている。新幹線公害も藤前干潟も愛知万博もこの「いっせい行動」で取り上げられた。

(「いっせい行動」の記録は『焔の群像』という本にまとめられた。愛知県保険医協会扱い tel 052-832-1345)


庄内川上流の岐阜県恵那市でも、「森の健康診断」にたずさわった人たち10余名に集まっていただき、僕らのインタビューが始まったが、それは、彼ら自身の「ふりかえり」の会ともなった。「森の健康診断」の仕掛け人である丹羽健司さんが、こうした僕らのインタビューをお膳立てしてくれたのだが、丹羽さんは、ぼくら「研究者」の訪問をそうやってうまく“使った”のだった。外から調査に入る、というのは、いつも何かしら後ろめたいものだが、こういう使われ方は悪くない。


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2005年

12月

24日

【7】ソロモン諸島:出会うこと

最初にソロモン諸島を訪れたのは1992年。ほとんど何のつてもなかった。唯一つながりのあった地元NGOに手紙を出しておいたが、返事はなかった。それでも行ってみよう、と、妻と二人で出かけた。


「なぜソロモン諸島だったのですか?」とよく聞かれる。僕は大学院生時代に、東京で反核パシフィックセンター東京という、オセアニアの人びとと「反核」でつながろうというグループ(宇井純さんが始めた「自主講座」の一つのグループ)で活動していたから、それが一つのきっかけになっている。でも、たぶんそれよりも、「世界の“ど田舎”に行きたい!」という思いの方が強かった。「世界」を考えるときに、先進国の大都会から考えるのもいいが、僕は世界の“ど田舎”から考えたかった。世界の“ど田舎”から世界を見ると、どう見えるのか?――


そうやって、ソロモン諸島に通い始めたころ、とまどったことの一つは、キリスト教だった。ソロモン諸島の人の多くは、熱心なキリスト教徒だ。というよりも、熱心なキリスト教徒としてのふるまいが、生活の一部として染みついている。最初僕はそれに少し合わせようともしたが、やはりそれは無理だった。いつもお世話になっていたエリファウおじいちゃん(日本に来たエディさんのお父さん。先月号で登場したエリファウさんとは別人)は、あるとき、僕の枕元にキリスト教入門書みたいなものをそれとなく置いてくれた。僕は少し読んだふりをしてそれを返すしかなかった。


そのエリファウおじいちゃんは、僕が病気になると、祈祷師みたく、いろいろなお祈りをしてくれた。僕はもちろんそのお祈りの“呪文”が何を意味しているのか分からなかったが、おじいちゃんがそこにいてくれて、僕のために祈ってくれているということが、うれしかったし、力にもなった。


エリファウおじいちゃんは、2002年5月に亡くなった。おじいちゃんの生年は不明だが、おそらく70歳台後半だった。おじいちゃんが若いころ、ソロモン諸島では、マアシナ・ルールという、イギリス植民地支配からの自立を目指す運動が盛んになり、おじいちゃんもそれに加わった(当時の若者たちの多くが加わったのだ)。弾圧されて、監獄に2ヶ月入っていた。それよりもっと若かったころ(エリファウおじいちゃんの言い方だと「まだキリスト教に改宗する前」)、ある女性を奪い合って別の若者たちとけんかして、いっしょに監獄に入れられたこともあったから、監獄は2度目だった。


さまざまな人生を送ってきた最後の10年に突如現れたのが僕だったというわけだ。日本からの闖入者とエリファウおじいちゃんがこういう形でつながったのにどんな意味があったかはよくわからない。しかし、それは楽しい出会いだったし、意味のある出会いだったと思う。


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2005年

11月

25日

【6】僕がソロモン諸島で発見した、あたりまえのこと

昨年ソロモン諸島を訪れたとき、いつも滞在しているアノケロ村より、もっと奥地の村へ行こうという話になった。川を何度も横切り、雨上がりのどろどろの山道を上がったり下がったり、沢を登ったりすること5時間(さすがにしんどい)、僕らは、山の尾根にあるたった2軒の小さな集落、ウムラナ村にたどりついた。


この村は、エリファウさん(男性。推定1950年ごろ生まれ)が2000年に作った。四方が開けているため、いい風が吹く。庭もきれいに造っていて、すぐ近くには熱帯林が広がる、心地よい村だ。畑も集落のすぐ近くにあって、利便がよさそうだ(畑が遠くて困っている人が他の村には多い)。


エリファウさんは、もともと、もっと下流部の村の生まれで、日系企業のソロモン大洋の缶詰工場や、首都ホニアラの煙草工場などで働いたことがある。しかし、1999年以降ソロモン諸島を揺るがした民族紛争の経験から、「争いごとのない奥地で生活したくて」ここへ移ってきた。熱帯林の中の資源へのアクセスが容易なことも、移ってきた理由の一つだ。エリファウさんは一人で決断し、妻と父親を連れて、ここへ移住し、家を建てて、畑を拓いた。


ジョン・ボラさん(男性。1972年生まれ)も、一時、エリファウさんと同じように、奥地への移住を試みたことがある。1998年、彼の祖先の場所である奥地の土地へ、移住を計画し、家まで建てた。しかし、半年住んだところで、妻が病院へのアクセスが悪いことを不満に感じたため、再び海岸部の村へ降りてきた。ボラさんは幼少のころ村にいたが、小学生時代をアブラヤシ・プランテーションの宿舎で過ごし、小学校卒業後は、首都ホニアラの華人商店などで働いた。22歳のときに村へ戻り(とは言え、生まれた村とは違う)、そして26歳のときに、奥地の村への移住を試みたのだ。そのころ僕はよく、ボラさんに付き合ってもらって熱帯林の中を歩いたり、近くの村へ一緒に遊びに行ったりしたものだ。そして、ボラさんは、2002年、今度は、首都のホニアラに出て、華人の貿易会社で働き始めた。ボラさんはその会社で、フカヒレ、ナマコといった中国向けの輸出商品を扱う責任者になっている。町で会うボラさんは、村のボラさんとは見違えるように、町のビジネスマンというふうに変身していた。


いろんな生き方がある。経済、人間関係、文化、自然、制度、医療、教育、といったさまざまな資源との距離を測りながら、一人ひとりが、家族とともに、生活の方向を試行錯誤している。「世界の“辺境”で世界を考えたい」、そう思ってソロモン諸島の村に通うようになった僕が発見したことは、意外なほどの、生き方の多様性だった。


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2005年

10月

23日

【5】記録ということについて考える

人びとの記憶は、僕らが、どういう社会を作っていったらよいか、ということを考えるときの、最も中心に置かれるべきものだ、と僕は思っている。人びとが何に苦しみ、何に喜び、何に失敗したか、の記憶を抜きに、社会の次の一手はない。しかし、記憶は、人の手によって記録されることがなければ、そのうちに、存在しなかったものとして扱われる。そして、下手をすると、空疎で声高な主張の方が通ってしまうかもしれない。


僕が沖縄県池間島のおじい・おばあたちの話の聞き取りを始めようと思ったきっかけは、彼らの貴重な話がほとんど記録されていないことを知ったからだった。戦前南洋群島(ミクロネシア)に移民していた彼/彼女らの話は、どれもとてもおもしろく、僕を夢中にさせた。


聞き書き記録は、日本で決して少ないわけではない。外国のことはそれほどよく知らないが、もしかしたら日本は、世界でも有数の聞き書き記録国ではないかと思う。その分厚さを中心で支えているのは、戦争の記録だ。


各地域の市民が自ら書いたり集めたりした第二次大戦の記録は、膨大な数にのぼる。市町村史レベルで集められた手記や聞き書きも数多い。創価学会青年部が70年代から80年代にかけて精力的に収集した戦争の記録(『戦争を知らない世代へ』全80冊)も貴重なものだ。近年では、阪神・淡路大震災の記録が、現在進行形で記録されつづけ、その量も膨大なものになっている。


しかし、一方で、こうした記録は、市町村史として少部数発行されるのみだったり、あるいは郷土史家や市民、学校などによって半ば私家版の形で発刊されたりすることが多く、なかなか広がりをもちにくかった。


沖縄県読谷村では、村史の中に『戦時記録』の巻を設け、村民自身が集落ごとで調査を行い、村民たちが被った戦争の実態を明らかにしていった。そして、その『戦時記録』の巻は、現在ホームページ上で公開されている(http://www.yomitan.jp/sonsi/)。紙媒体のままだと、それに触れる人が限られていたのが、ホームページで公開されることによって、一気に広がりをもちうることになった。(この読谷村の村史をもとに、NHKでは、「沖縄 よみがえる戦場~読谷村民2500人が語る地上戦」というすぐれたドキュメンタリーが制作された。今年の6月と9月に放映)


記録の大事なところは、そこに、いろいろな方向のものがごちゃごちゃ集まっているということだ、と僕は思う。僕らは、思いこみを排し、まずはそのごちゃごちゃさと付きあいたい。記録の中のごちゃごちゃさをすっ飛ばして、わかりやすいスローガンにしてはいけない。


戦争について言うと、生き残っている人の年齢からいって、記録をとるという作業は、そろそろ終わりに来ている。僕らは、その膨大な記録とどうつきあい、どう活かしていくか、を考えなければならない。記録は単なるデータではないし、後世の歴史家のために資料を提供することでもない。記録は、僕らの〈力〉になる。しかし、どう〈力〉にしていくか、その道筋はまだはっきりしていない。


僕自身、池間島で聞き取った30本くらいのカセットテープを、まだ十分には生かしきれないでいる。どうしたらいいものやら。


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2005年

7月

28日

【4】自然とは何か、というややこしい話を北上川で考える

前々回、宮城県の北上川河口地域における調査の話を書いた。その続きの話。


ヨシ(葦)が僕らの目当てだった。実はヨシは、近年にわかに見直されていて、水質浄化作用があるだの、魚や鳥の生息場所として重要だの、河岸の侵食を防止するだの、その“効用”が言われている。滋賀県では、琵琶湖の環境を保全する目的で「ヨシ群落の保全に関する条例」というものが制定された(1992年)ほどだ。


僕もそうしたヨシの効用に異存はない。しかし、僕は自然も好きだが、やはり人々の生活に関心があるので、そちらからヨシを考えたい。


そう考えたとき、北上川河口地域のヨシは、いろいろと考えさせてくれる。


そもそも、この地域のヨシ原は、大正時代まで田んぼだったところだ。北上川は洪水の多い河川で、その洪水を防ぐために、明治から昭和にかけて(1911~1934年)、流れそのものを変える大工事が行われた。そのおかげで、河口部は川幅が大幅に広げられ、もともと田んぼとして使っていたエリアが河川区域に組み入れられてしまった。そこには集落もあったが、国家の政策によって移転させられた。大正年間のことだ。河川区域に組み入れられた元集落、元田んぼの跡には、昭和初期、ヨシが生え始めた。人々はこれを、当時需要の多かった海苔簀(のりず)(海苔の乾燥に使う簀の子)の原料として刈り取り、出荷した。


「契約講」という、東北に特徴的な集落組織がある。河原のヨシを利用する権利を有しているのは、この「契約講」だ。もちろん、というべきか、河川は国家の管理下にあるので、集落は法的な「権利」をもっているわけではない。「谷地(やち)がだんだん育ってきたので[ヨシがだんだん生えてきたので]、部落が権利を国から払い下げを受けて、部落所有みたいになった」と、昭和初期を知るあるおじいさんは語ってくれた。「払い下げ」というのも、「部落所有」というのも、法的には正確な言い方ではない。しかし、住民たちはそう理解し、行使してきたので、国も手出しできない実質的な「権利」が成立してきた。


各集落はその権利のもと、ヨシ原を持続的に利用してきた。集落による集団的な権利が、ヨシ原を保ってきたのである。


というと、少々美しいストーリーだが、もちろん、そんな簡単な話ではない。現在この地域で田んぼとして使われているエリアの多くは、こんどは逆に、もともとヨシの生える湿原だった。無理矢理田んぼも作っていたが、いかんせん収穫量が少ない。明治から昭和の河川改修に並行して、この湿原エリアの干拓が大々的に行われ、“美田”が形成された。田んぼがヨシ原になり、ヨシ原が田んぼになったのである。元湿原エリアは、現在ならラムサール条約登録間違いなしだろう。


自然を守る、ということを、僕らはどう考えたらいいのか。自然のありようを、人々の生活から考えると、どんなことが言えるだろうか。というわけで、僕らの北上川河口地域の調査はつづく。


さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』91号(2005年8月号)

2005年

6月

28日

【3】島の幸福な時間

沖縄の池間島を訪れた。5年ぶりだ。

池間島は、宮古島の北に位置する小さな島だ。連載の初回に書いたように、僕はこの島に10年間、断続的に通い、いろいろなことを教えてもらった。しばらく行っていなかった間に、親しくしていたおじいさんの一人が亡くなった。その霊前に手を合わせなければ、と思っていたし、そろそろみなさんに挨拶もしなければと考え、島のお祭りに合わせて、再訪した。

ヒャーリクズというお祭りは、明治20年ごろ糸満漁民(糸満は沖縄の著名な漁業地域)から伝えられて始まった行事とされる。旧暦5月4日に行われるので、今年は6月10日。

船が1隻、島内各団体の代表者たちが乗って沖に出、オハルズと呼ばれる島のウタキ(神社)へ向かってお祈りする「ウガンバーリー」の儀式から、祭りは始まる。

お祭りのメインは、ハーリー競漕(ボートレース)だ。10人ほどが乗ったボートが3隻並んで、500メートルほど沖にある旗を一周してくる。地区別、青年団の地区別、職場別、と全部で10レースほどが行われるのだが、漕ぎ手が足りず、同じ人が何度も参加する。「センセイも漕ぎなさい」と言われ、僕も2本のレースに参加した。1本め、最下位。2本め、2位。1位への道は険しいが、ずぶ濡れになりながらみんなで力を合わせて漕ぐのは気持ちがよい。

女性たちの2つのチームも、高校生チームとのレースに参戦した。高校生チームは、出だし好調で女性チームを引き離したが、後半息切れし、結局は最下位に終わった。

ボートには負けたけれど、高校生たちは、お祭り全体の裏方として大活躍した。ボートレースでは、ボートの配置を担当し、午後からの子ども相撲では子どもたちのサポート役に、と大忙しだった。高校生たちが、地域の活動に参加して活躍しているのを見るのは、なんだかとってもうれしい。しかし、その数、10人足らず。それが、高齢化が進んでいるこの島の現実だ。

子ども相撲は、砂浜に急造した土俵で、小中学生が個人戦・団体戦で争う。子どもたちはやはり数が少なく、同じ子どもが何度も登場する。女の子と男の子の試合もある。女の子が男の子を負かして、島びとたちはやんやの喝采を送る(ホント、女の子たちは強かった)。拡声器を使って実況中継をするアナウンサー役の島民は、子ども全員の名前を知っていて、「○ちゃん、負けるな」「○くん、反撃に出た!」と、会場を盛り上げる。

昔かつお節で栄えた島は、今、年寄り中心の島になった。「子どもの数がもっと減って、もし小中学校が閉校になったら、地域は終わりだ」、と那覇から久しぶりに島に戻ってきた人は心配して語る。でも、祭りに参加した僕は、この島がまだ幸せな時間をもてていることになんだかホッとした。

さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』90号(2005年7月号)

2005年

5月

31日

【2】僕は葦を考える人間である

石狩川でヤツメウナギを捕りつづけている漁師さんの話を聞きに行ったことが、ことの始まりだった。一昨年のある日、地元の人でも気がつかないような、ひっそりした建物の江別漁業協同組合で僕らは話を聞いた。僕らの関心をひいたのは、カヤドウと呼ばれるヤツメウナギ漁の漁具だった。大人の高さくらいあるカヤドウは、文字通りカヤ(ヨシ)からできている。宮城県の産地からヨシを入れて、漁師さん自身が編む。

 調べると、すぐわかった。宮城県の産地というのはたぶん北上川の河口地域で、そこには、マスメディアにもたびたび登場する熊谷産業というヨシ(葦)業者がある。石狩川と北上川という、遠く離れた2つの川が、漁具で結ばれているなんていい話じゃないか。この熊谷産業に連絡をとってみよう。
 という話を、かつお節の調査を一緒にやってきた仲間にしたら、その一人が、「あれ、それはクマさんのことじゃないの?」。聞けば、彼がフィリピンに青年海外協力隊に行っていたころの協力隊仲間だという。

 協力隊出身の熊谷秋雄さんは、フィリピンで地域のさまざまな資源が有効利用されている姿を見、自分の地元にはヨシがあるじゃないか、と気がついた。父親がやっていたヨシ業者を発展させる形で「熊谷産業」を設立し、単にヨシを刈って売るというこれまでの仕事の枠を超え、屋根職人を育成して、ヨシの総合産業としてやっていこう、と始めた(コミュニティ・ビジネスですね、まさに)。熊谷さんがヨシを再び積極的に利用するようになってから北上川河口部のヨシ原は再生し、その景観は、全国的にも知られるようになった(ヨシは人間がちゃんと毎年刈り取ったり火入れをしたりしないと、“荒れて”しまうのです)。

 と、ここまでは、メディアに出てくる熊谷産業ストーリー。僕らはもちろんそのストーリーにも関心を持ったが、「そんなのホンマかいな」、「もっと地域の人々にとってのヨシ原の意味を知りたい」、といった関心をもって、宮城県に飛んだ。昨年の2月だった。

 「石狩川の漁にここのヨシが使われていると聞いた」という僕らに、熊谷さんは、「え、それは知らないなあ。それにそれはヨシじゃなくてオギだと思いますよ」。え、オギ? 僕らは熊谷さんのお父さんに連れられて、河岸に広がるヨシ原に立った。「ほれ、これがヨシ、これがオギ」。遠目にはほぼ同じに見えるヨシとオギは、説明を聞くと、なるほど微妙に違う。少し固いオギの方が漁具に向いているということだ。

 僕らは、その後、何度か現地を訪れ、熊谷さんのお父さんのアレンジのもと、地域の人たちから、人と自然の関係について、聞き取りを続けていくことになった。ヨシの調査のはずが、炭焼きの話、今はなき湿原の話、戦後開拓の話、出稼ぎの話、と広がっていった。

 地域を知る、また、自然について考えるとは、そういうゆっくりした作業のことだ、と僕は思っている。


さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』89号(2005年6月号)


2005年

5月

09日

【1】かつお節の調査が僕らをむすびつけてくれた

先日「カツカツ研」の解散式をやった。「カツカツ研」というのは、市民や研究者が共同でカツオ・かつお節について調査した、「カツオ・かつお節研究会」という小さなグループのことだ。解散式って言ったって、横浜の中華街のお店で夕食をみんなで囲んだだけだ。夕食の前には、横浜の「神奈川県民活動サポートセンター」のフリースペースを使わせてもらい、残務処理のミーティングを開いた。

解散式を開きながら、僕は、がらにもなく、ちょっと感傷的になっていた。思えば10年くらい前に、かつお節の研究会を始めよう、かつお節から南北問題・グローバリゼーションを考えてみよう、と考え、いろいろな人に声をかけた。NGO関係者、青年海外協力隊のOB・OG、沖縄に関心がある若い人たちなどが集まってきた。高校の先生をしていてなかなか調査の時間がとれないあるメンバーは、大学時代を過ごした鹿児島で、かつお節と森との関係をさぐる詳細な調査をしてきて、研究会をわかせた。琉球大学出身のある女性は、沖縄・伊良部島のかつお節工場でバイトをしながら、昔の沖縄移民の聞き取り調査をした。そんな、市民による魅力的な調査が次々に生まれた研究会だった。2ヶ月に1度くらい会うだけだったが、いい仲間たちだった。

昨年の11月に『カツオとかつお節の同時代史』という本を出して、長く続いたこの研究会も、無事終了した。一緒に調査をする仲間との出会い、調査の現場でお世話になる人々との出会い、そんなものも、一つの区切りを迎えることになったのだ。

沖縄県池間島の譜久村健さん(1925年生まれ)は、最初僕が訪ねていったとき、資料を貸してくれという僕に「見ず知らずの人に簡単に貸せない」と冷たく言った。そりゃあそうだ、と僕は思ったが、でも少し落ち込んだ。しかし、2回目、3回目の訪問で、譜久村さんは僕をすっかり受け入れてくれ、以降、僕は島の調査について譜久村さんに頼りっぱなしになった。お酒の限界を知らない譜久村さんの相手をすると、翌日は二日酔いでのたうち回ることが多かった。そんな譜久村さんとも、最近では年に2~3度電話で話すだけになってしまった。今年はハーリー(島のボートレース)のときにでも行かなきゃ、と思う。

世の中には、僕らの知らないことがたくさんある。池間島というちっぽけな島の大半の人たちが戦前も戦後も海外に積極的に出ていた、という話は、僕らを素直に驚かせる。知らないことを知るには、足を運ぶしかない。足を運んでそこの空気を吸い、そこの人たちの話に耳をかたむけることが、僕らの社会の見方を、変え、また、厚くしてくれる。

何のために調べているの?という疑問にストレートに答えるのは難しい。しかし、調べるというコミュニケーションのしかたが、僕らの何かを変える可能性、社会の何かを変える可能性をもっていることだけは言えると思う


さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』88号(2005年5月号)