【5】記録ということについて考える

人びとの記憶は、僕らが、どういう社会を作っていったらよいか、ということを考えるときの、最も中心に置かれるべきものだ、と僕は思っている。人びとが何に苦しみ、何に喜び、何に失敗したか、の記憶を抜きに、社会の次の一手はない。しかし、記憶は、人の手によって記録されることがなければ、そのうちに、存在しなかったものとして扱われる。そして、下手をすると、空疎で声高な主張の方が通ってしまうかもしれない。


僕が沖縄県池間島のおじい・おばあたちの話の聞き取りを始めようと思ったきっかけは、彼らの貴重な話がほとんど記録されていないことを知ったからだった。戦前南洋群島(ミクロネシア)に移民していた彼/彼女らの話は、どれもとてもおもしろく、僕を夢中にさせた。


聞き書き記録は、日本で決して少ないわけではない。外国のことはそれほどよく知らないが、もしかしたら日本は、世界でも有数の聞き書き記録国ではないかと思う。その分厚さを中心で支えているのは、戦争の記録だ。


各地域の市民が自ら書いたり集めたりした第二次大戦の記録は、膨大な数にのぼる。市町村史レベルで集められた手記や聞き書きも数多い。創価学会青年部が70年代から80年代にかけて精力的に収集した戦争の記録(『戦争を知らない世代へ』全80冊)も貴重なものだ。近年では、阪神・淡路大震災の記録が、現在進行形で記録されつづけ、その量も膨大なものになっている。


しかし、一方で、こうした記録は、市町村史として少部数発行されるのみだったり、あるいは郷土史家や市民、学校などによって半ば私家版の形で発刊されたりすることが多く、なかなか広がりをもちにくかった。


沖縄県読谷村では、村史の中に『戦時記録』の巻を設け、村民自身が集落ごとで調査を行い、村民たちが被った戦争の実態を明らかにしていった。そして、その『戦時記録』の巻は、現在ホームページ上で公開されている(http://www.yomitan.jp/sonsi/)。紙媒体のままだと、それに触れる人が限られていたのが、ホームページで公開されることによって、一気に広がりをもちうることになった。(この読谷村の村史をもとに、NHKでは、「沖縄 よみがえる戦場~読谷村民2500人が語る地上戦」というすぐれたドキュメンタリーが制作された。今年の6月と9月に放映)


記録の大事なところは、そこに、いろいろな方向のものがごちゃごちゃ集まっているということだ、と僕は思う。僕らは、思いこみを排し、まずはそのごちゃごちゃさと付きあいたい。記録の中のごちゃごちゃさをすっ飛ばして、わかりやすいスローガンにしてはいけない。


戦争について言うと、生き残っている人の年齢からいって、記録をとるという作業は、そろそろ終わりに来ている。僕らは、その膨大な記録とどうつきあい、どう活かしていくか、を考えなければならない。記録は単なるデータではないし、後世の歴史家のために資料を提供することでもない。記録は、僕らの〈力〉になる。しかし、どう〈力〉にしていくか、その道筋はまだはっきりしていない。


僕自身、池間島で聞き取った30本くらいのカセットテープを、まだ十分には生かしきれないでいる。どうしたらいいものやら。