言葉の変化と消費

言葉を消費するということをどう考えたらよいか。


つぎつぎに新しい言葉が出てくることに眉をひそめる人たちがいる。「うざい」、「びみょー」、「やばい」などの若者言葉(というか子供がよく使っているという意味では「子供言葉」)を一部の「おとな」たちが「日本語の乱れ」ととらえるのは、もうかなり前からの事象の繰り返しであることは間違いない。「このケーキ、やばくない」と言うのも、もちろん社会の自然な流れだし、それに眉をひそめる人たちがいるのもまた、まあ自然な反応だ。


しかし、問題はいくらか残る。第1に、なんでもありなのか、ということ。第2に、その変化に適切な速度というものはないのか。第3に、世代間のコミュニケーションを阻害するという問題をどうするか。

3番目の問題は、たぶん言葉がコミュニケーションを阻害するのではなく、コミュニケーションが断絶しているから言葉に断絶が生まれるのだ、と理解した方がいいだろう。


言葉が変化するのはもちろん自然な流れとして、どの程度の変化をどの程度の速度で進めるのかがたぶん議論の焦点で、同時にそれは、僕らがどういう社会を望んでいるか、ということとおそらく同義になるだろう。


もうひとつ問題が残っている。第4の問題として、言葉が消費される、という事態をどう考えればよいのか、という問題。近年では、「スローフード」という言葉が、好ましい感じの思想と行動をともなって登場したにもかかわらず、メディアによって消費しつくされ、ものの見事にただの陳腐な無思想の言葉におとしめられてしまった。


マクドナルドに入ったら、「ファーストフード。そのおいしさや安心は、スローに作られています」というポスターが掲げてあった。「ファストフード」に対抗し、運動として始まった「スローフード」は、こうしてファストフードさえも取り込む概念となってしまい、言葉のポリティクスとしては完全な敗北となった。


これも自然の流れ、と考えていいのか。だとしたら、僕らは、新しい社会のために言葉を作っていくという作業をもう放棄すべきなのか。