宮本常一が見た多様性 

宮本常一が1959年に次のようなことを、さらりと書いている。


日本の村々をあるいて見てみると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向が強く出ていたようであるが、明治に入ってはさらにはなはだしくなったのではないだろうか。村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。

宮本常一『忘れられた日本人』より「世間師(一)」(初出は1959年) 


ソロモン諸島で僕はその意外なほどの生き方の多様性を「発見」したが、日本社会ももっともっと個性的だった、と宮本は1959年段階で感じていたのである。社会がどんどん画一化されていくことへの危機感もあったかもしれない。


沖縄の池間島で調査をしたときにも、同じような印象を持った。池間島のおじぃ、おばぁに、戦前の南洋移民について話を聞いていたのだが、彼/彼女らの話に「冒険心」とでもいうべきものが強く働いているのを感じた。ある男性は、「島の大人たちは若者を馬鹿にするところがあり、それが嫌で外に飛び出した」と移民の動機を語ってくれた。


何やってもいいんだ、いろいろやってみようよ。そんなことを、僕は池間のおじぃ、おばぁたちから学んだ。宮本常一の名著『忘れられた日本人』に登場する「忘れられた日本人たち」は、まさにそうした市井のやんちゃたちだった。