【6】僕がソロモン諸島で発見した、あたりまえのこと

昨年ソロモン諸島を訪れたとき、いつも滞在しているアノケロ村より、もっと奥地の村へ行こうという話になった。川を何度も横切り、雨上がりのどろどろの山道を上がったり下がったり、沢を登ったりすること5時間(さすがにしんどい)、僕らは、山の尾根にあるたった2軒の小さな集落、ウムラナ村にたどりついた。


この村は、エリファウさん(男性。推定1950年ごろ生まれ)が2000年に作った。四方が開けているため、いい風が吹く。庭もきれいに造っていて、すぐ近くには熱帯林が広がる、心地よい村だ。畑も集落のすぐ近くにあって、利便がよさそうだ(畑が遠くて困っている人が他の村には多い)。


エリファウさんは、もともと、もっと下流部の村の生まれで、日系企業のソロモン大洋の缶詰工場や、首都ホニアラの煙草工場などで働いたことがある。しかし、1999年以降ソロモン諸島を揺るがした民族紛争の経験から、「争いごとのない奥地で生活したくて」ここへ移ってきた。熱帯林の中の資源へのアクセスが容易なことも、移ってきた理由の一つだ。エリファウさんは一人で決断し、妻と父親を連れて、ここへ移住し、家を建てて、畑を拓いた。


ジョン・ボラさん(男性。1972年生まれ)も、一時、エリファウさんと同じように、奥地への移住を試みたことがある。1998年、彼の祖先の場所である奥地の土地へ、移住を計画し、家まで建てた。しかし、半年住んだところで、妻が病院へのアクセスが悪いことを不満に感じたため、再び海岸部の村へ降りてきた。ボラさんは幼少のころ村にいたが、小学生時代をアブラヤシ・プランテーションの宿舎で過ごし、小学校卒業後は、首都ホニアラの華人商店などで働いた。22歳のときに村へ戻り(とは言え、生まれた村とは違う)、そして26歳のときに、奥地の村への移住を試みたのだ。そのころ僕はよく、ボラさんに付き合ってもらって熱帯林の中を歩いたり、近くの村へ一緒に遊びに行ったりしたものだ。そして、ボラさんは、2002年、今度は、首都のホニアラに出て、華人の貿易会社で働き始めた。ボラさんはその会社で、フカヒレ、ナマコといった中国向けの輸出商品を扱う責任者になっている。町で会うボラさんは、村のボラさんとは見違えるように、町のビジネスマンというふうに変身していた。


いろんな生き方がある。経済、人間関係、文化、自然、制度、医療、教育、といったさまざまな資源との距離を測りながら、一人ひとりが、家族とともに、生活の方向を試行錯誤している。「世界の“辺境”で世界を考えたい」、そう思ってソロモン諸島の村に通うようになった僕が発見したことは、意外なほどの、生き方の多様性だった。