【10】人の歴史

札幌にも来たソロモン諸島のエディさんから、ジョナサン・リンギアさんさんが亡くなった、という手紙を受け取った。


ジョナサンさんは、1923年生まれで、僕が1992年以来お世話になっているソロモン諸島マライタ島アノケロ村の“長老”だ。


地域の歴史を村人たちに聞こうとすると、きまって「そういうことなら、ジョナサンに聞きな」と言われ、僕は何度も何度もジョナサンさんの家に足を運び、話を聞いた。ジョナサンさんがまだ元気だったころは、畑から帰ってくるのを待って話を聞いた。少し体を悪くしてからのジョナサンさんは、家の前の土間(そこは村人がよく集まってくるところでもあった)でパンダナス(アダン)のマットを奥さん(3番目の奥さんだ)と一緒に編んでいたので、そこで話を聞くことが多くなった。そんなときは、子供たちも自然に集まってきて、ジョナサンおじいちゃんの話を一緒に聞くことになった。


ジョナサンさんは、まだ10代のときに、2年間ほど、島外のココヤシ・プランテーションで働いている。


「キロックという白人のプランテーションで働いた。キロック氏はきつい人で、働かないとぶん殴られた。自分たちは白人の下で働くのが嫌だったが、植民地政府が課した人頭税を払うためにはしようがなかった」


ジョナサンさんの話のハイライトは、ソロモン諸島で吹き荒れた、マアシナ・ルールという自治運動(1944~49)だ。


「島のある指導的な男性がこの運動を始めた。彼はこう言ったのだ。《白人たちは私たちを抑圧してきた。私たちを奴隷として扱ってきた。私たちは自分たちの政府を作らなければならない》。彼のメッセージは、村々を伝って、この村にもやってきた。私たちはイギリスによる支配から自由になりたかったから、それを聞いてみなうれしかった」


ジョナサンさんは、このマアシナ・ルール運動に深く共鳴し、村で若者のリーダー的な役割を演じる。しかし、1949年、運動は弾圧され、終結する。ジョナサンさんも捕らえられ、監獄へ送られた。その後のジョナサンさんは、村に住みつづけながら、ソロモン諸島の社会変動を見つめてきた。


これは、単なる僕の感傷的な思い出話ではない。ジョナサンさんにはいろいろな話を聞いたが、そこには、いつもたくさんの個人名が出てきた。何か巨大なものが動かす歴史ではなく、人々の歴史がそこにはあった。ジョナサン・リンギアさん自身の人生も、そうした歴史そのものだった。