【12】新潟水俣病から

何か問題があって、それを解決するための運動はどうあるべきだろう。解決とはいったい何だろう――。


環境社会学会という学会の準備のため、この4月、初めて新潟を訪れた。新潟水俣病の研究を長く続けている立教大学の関礼子さんに連れられ、やはり新潟水俣病の問題に長くかかわってきた旗野秀人さん(新潟県安田町在住)に出会った。話題になった映画「阿賀に生きる」の仕掛け人として知られる。本人も最近「阿賀野川 昔も今も宝もん」という映画を撮っている。本業は家業の工務店の「専務」。


旗野さんは水俣病の患者さんたちからいろいろなことを教わったと語る。患者さん支援の活動を一生懸命していた旗野さんは、あるとき患者さんの一人にこう言われる。「患者のためにがんばるのもいいが、ちゃんと仕事しなければダメだぞ」。旗野さんは、運動の専従という選択肢もあったのだけれど、家業に戻る。「そういうことを言ってくれる人がいたんだ」と旗野さんは感謝するふうに当時を振り返る。


患者さんたちが水俣病認定棄却を不服として起こした行政不服審査請求では、その口頭審理で、あるおばあちゃんが延々と身の上話をするのに旗野さんは出会う。「私は川向こうから船に乗ってこちらに嫁いできました。結婚式のときに初めて連れ合いの顔を見たら、結構いい男でした」云々。また、あるおじいちゃんは「反論書」に自分の好きな川魚の名前を並べる。患者さんたちにとっての水俣病とはそういうものだった。「民俗学の世界なんです」と旗野さん。生活全体や地域全体の中で水俣病を語り、かかわるということ。旗野さんが好んで使う「それぞれの水俣病 それぞれの阿賀野川」という言葉に僕は大きな示唆を感じる。


旗野さんは水俣の川本輝夫さん(熊本水俣病の患者リーダー)に言われてお地蔵さんを作る。水俣に一体送り、新潟に一体置く。新潟では虫地蔵の隣に置かれた。そこに患者さんたちや地域の人たちが来て手を合わせる。そこからまた物語が生まれる。物語、というのが、旗野さんと話していて浮かび上がってきたキーワードだった。


地元新潟県安田町の患者さんたちが集まる花見の会に僕も出させてもらった。患者さんたちはずいぶん旗野さんを頼りにしている。家族ぐるみでつきあっている関礼子さんも含めて、花見の温泉宿では、ゆったりとした時間が流れていた。旗野さんの現在の活動グループ名は「冥土のみやげ企画」という。

(旗野秀人さんが書いたものの多くは、http://www.hanga-cobo.jp/hatano/に掲載されています)