「あたりまえをひっくりかえす」はもう通用しないか?

立命館大学(京都)で開かれた日本社会学会の大会(2006/10/28-29)に参加した。


2日目に開かれたシンポジウム「岐路に立つ社会学教育」がおもしろかった。立教大学の奥村隆さん(僕の大学院時代の同級生だ)が、「あたりまえをひっくりかえす」という社会学が得意としてきたやり方を大学教育の場でやるのはもう時代遅れか、と語った。自明性を問う、という社会学お得意な手法が、実は現代の若者にはすでに気分として浸透していて、「あたりまえをひっくりかえす」自体が「あたりまえ」になっているのではないか、と奥村さんは指摘した。他のパネリストもこれに呼応して、野村一夫さん(國學院大学)も「これからは『あたりまえをひっくりかえす』ではなく、公共哲学としての社会学を伝えていかなければならないのではないか」と語った。


「あたりまえをひっくりかえす」自体が「あたりまえ」になってしまっているかどうかは、もう少し検討する必要があるにせよ、今の時代状況の中で、「あたりまえをひっくりかえす」が以前ほどポジティブな意味をもつかどうかは、なるほど、大いに疑問になってきている。「規範」を暴露することが得意だった社会学だが、自ら「規範」を語ることには慎重だった。それは意味をもつ慎重さだったが、たぶん、もっと「規範」を語ってもよいのではないか、と僕自身も思う。というのも、良質の社会学における「あたりまえをひっくりかえす」は、単に「ひっくりかえす」ではなく、創造のための「ひっくりかえす」だったと僕は理解している。言い換えれば、よりましな社会を作るための戦略として「ひっくりかえし」ていたわけだ。戦略は時代状況に応じて練り直さなければならない。


ひるがえって、自分が行っている大学教育は、規範を語ったり、規範を壊したり、規範を考える手法を伝えたり、とあまり一定していない。ただ、力を入れているのは、規範を考える手法を身につけてもらう、ということ。考えてみると、僕がやっている授業のかなりの部分は、市民としての公共哲学的なものを考える、その考える手法を身につけてもらおうとするものだ(「~は正しいか?」「どれがよいか?」といった問いをグループで考えてみる、というのが多い)。


どの方向がよいか、当面はいろいろやってみるしかないか。