【15】栗拾いの生活を聞く

いろいろな暮らしがあった。そのあたりまえなことを、僕らが3年ほど続けている宮城県旧北上町(昨年石巻市に合併)での聞き取りは教えてくれた。


たとえば、栗の話。山あいの女川(おながわ)集落で、Sさんは語ってくれた。


「秋になって栗の落ちる時期になるとね、夜のうちに、提燈つけて栗を拾いに行くんだ」。夜に? 提灯を付けて? 「早く行って拾うためにね。みんな競争になっちゃうんだ。だから朝4時くらいに行くんだ。落ちる状況を判断するの、明日落ちるとか、明日の朝落ちるとか、今夜落ちるとか。天気悪くなると、あぁ明日雨だ、今夜雨だ、って。雨降るとなおさら興奮するの。雨降るとその後風吹いて落ちるからね」


女川集落では、昭和25年くらいまで、こうやって栗を拾いに行く習慣があった。山あいの集落で、平地が少ない女川は、さまざまな手段で食料を確保しなければならなかった。その一つがこの栗拾い。「1回にメリケン袋1袋とか1袋半とかを持って帰ってきた。ご飯さ入れて栗ごはんにしてね。それから、煮て干して子どもたちのおやつにした。今みたいに、何も食うもんないんだからね」。どんなふうに干したんですか? 「つるして干すんです、干し柿干すみたいに。干すのが面倒は人は、むしろで干したね。拾ってきた栗を、廊下にむしろさずーっと奥まで敷いて干したのさ。そして、そのままぷちぷち、落下豆食うみたいに、食べるのです。今みたいに何もないから、学校から帰ってから、一斗缶さ入っている栗をポッケさつっこんでね、遊びに行ったのものです。そういう生活でしたね、小さいころは」


栗は、貴重な収入源でもあった。「拾ってきて、石巻方面さ小遣い稼ぎに売りに行くのです。個人の家に一軒一軒回ってね。市場も何もそのころないから、山菜でも何でもね、フキでもワラビでもとってきて、そうやって売ったんです」。栗の木の幹は屋根にもなった。「俺たちのじいさんの時代はね、栗は屋根にもなった。コバ葺きと言ってね、栗の木を割って葺いたらしい」


女川の人たちの山とのかかわりは次第に疎遠になってきた。それでも山のことを心配している。「今は山には山菜採りで入るくらいだね。山には入っていちばんに思うことは、昔みたいに人さ入らないから、道が今途切れてしまった。炭しょって歩いたころには、かきわけなくても、走ることができたくらいだった[この集落は炭焼きがたいへん盛んだった]。裸で歩いても大丈夫なくらいだったが、今はとてもじゃないけど。それから、入り口にはゴミの不法投棄ね。奥へ行くと今度は沢が荒れてんだね。なぜ荒れているのかというと、人が入んないからだね。小さい沢の変化はすごいなあ、と思いますね」


Sさんの経験や思いを、単に「昔話」として博物館にしまい込んでしまうのでなく、何か私たちの今後に生かせないか。いろいろ考えながら、しかし、ともかくも、僕は聞くことを続ける。