【16】宇井純さんという奇跡

宇井純さんが、昨年11月11日、亡くなった。享年74。


宇井純さんを初めて見たのは、僕が大学に入学して、宇井さんたちがやっていた自主講座というものに友人のすすめで参加してみたときだった。初めて見る宇井さんは、とにかくよく話す人だった。田舎から出てきて東京でいろいろと学ぶことを期待していた僕は、ここにこそ学ぶべきものがあると感じて、以降この自主講座に出席しつづけた。出席して、そこに置かれていたチラシの集会にも出たりしてみることになった。次第に、市民運動が僕にとっての学校になった。


そのうち、僕は、自主講座のグループの一つ「反公害輸出通報センター」(のち、反核パシフィックセンター東京と改名)にかかわるようになった。一九八四年ごろだ。宇井さんと直接の接触がそう多くあったわけではない。しかし、僕は宇井さんの影響を直接間接に受けた。


宇井さんはよく「自分は技術屋だ」と言っていた。修士課程まで応用化学(プラスチック加工技術)を学び、博士課程以降は土木工学(下水処理技術)が宇井さんの専門だった。しかし、その大学院生時代から水俣通いが始まった。石牟礼道子さん、原田正純さん、桑原史成さん(写真家)、そして宇井さんといった人たちが、まだお互いに出会っておらず、ばらばらに水俣病の被害者の間をうろちょろしていた時代である。宇井さんの嗅覚は、しかし、水俣に日本の社会にとっての根本的な何かがある(あるいは科学にとっての根本的なものがある)と感じとり、そして、とにかく現地で資料を集めまくった(宇井さんは資料収集魔だった。その膨大な収集資料は、現在埼玉大学共生社会研究センター http://www.kyousei.iron.saitama-u.ac.jp/ にある)。この水俣での資料は、その後新潟水俣病の運動でもそうとうに活かされた(と、新潟水俣病の裁判を担った坂東克彦弁護士がこのあいだ語っていた)。


宇井さんは、現場から、技術の問題と政治・社会の問題をリンクして語ることができるという意味で、まさに希有な人だった。


宇井さんは、一九七〇年、大学の研究と社会をつなげることを考え、東大自主講座を始めた。現在サイエンスショップと呼ばれているもののまさに早すぎる先駆けである。そこには、予想をはるかに上回る人が集まり、すぐさま実行委員会が結成された。この実行委員会は、宇井さんの述懐によれば、これまで経験していた大学や運動の世界とは違う、議論より手足が先に動く人たちの集まりだった。講義録を印刷するために自分たちで印刷機を導入し、あげくに印刷会社まで作ってしまった人たちも現れた。宇井さんが日ごろ言っていた「自分の地元に帰ってそこで高校教師か何かになって調査をしよう」という教えを守って、地方に散らばる者たちも現れた。イデオロギーを語るのではなく、運動を「実務経済的」(当時の宇井さんの言葉)に進めていく、という、現在のNPOに通じるようやり方は、このころの自主講座の新しさだった。


宇井さんは、自分のたどってきた道について、比較的多く書いたり語ったりしているのだが、それでも僕は、宇井さんの発想とパトスがどこにあったのか、わかりにくい部分が多い、と感じている。嗅覚とか感性としか言いようのない何かを感じる。その意味でやはり、宇井さんは、戦後最大の奇人変人であり、また奇跡だったと僕は勝手に考えている。