【18】宇井純さんのフィールドワークと学問

先日(六月二三日)、宇井純さんを偲ぶ集会が東京で開かれた。東京大学で開かれた午後の集会には千人近くが集まり、夜の懇親会も広い会場がごったがえす賑わいだった。


「那須の自然に学ぶ会」(栃木)の早乙女順子さんは、その集まりでこう語った。「産廃問題で、宇井さんを呼んだ。宇井さんは、素人の私たちに、運動の作り方から教えてくれた。“大人の男はダメだから、婦人部を作れ、青年部を作れ。それから、産廃の実態をちゃんと地図に落として調べなさい”とおっしゃった」。


集まりでは僕も少し発言させてもらった。その準備もあって、僕は四月から五月にかけて、宇井さんが残した文章を六〇年代からたどっていった。正直、驚いた。僕らが、環境と社会とのかかわりについて、あるいは調査研究のあり方について、現在さまざまに議論していることを、宇井さんはすでに六〇年代から言っているのだった。公害反対運動の主導者としての側面が社会的にクローズアップされ、僕らは他の宇井さんの側面を見落としてきているのではないか。そう思った。


宇井さんは、一貫して自身を「技術者」と規定してきた。しかしその「技術」が公害を生み、水俣病患者を生んでいる現実を前に、近代科学技術批判をせざるをえなくなる。「技術者」を自認する宇井さんとすればそれは抜け道がなくなるように思えるが、そこで宇井さんは、一見迂回路に見える「フィールドワーク」の手法をとることになる。それが宇井さんの六〇年代の水俣調査であり、『公害の政治学』という名著を生んだ。


そして、そこからさらに、歴史を重視するという姿勢も生まれた、と僕は見る。とくに足尾、荒田川、日立鉱山という明治・大正期の公害とそれを克服すべく取り組んだ住民たちの営み、さらには同時代の公害反対運動から芽生えた住民自身による調査学習活動から宇井さんは学んだ。そして、そこにこそ新しい科学、新しい技術の可能性があると考えた。定量的な分析を旨とする近代科学技術へ、公害の現場から疑問を投げかけた宇井さんは、六〇年代末にヨーロッパで学んだ汚水処理技術もあいまって、一九七〇年代に「住民が作る科学」「住民運動が作る適正技術」という主張と実践を始める。


宇井さんは、一九八〇年の日本物理学会のシンポジウムで、「公害問題を見る限り、拡散の微分方程式などを使って住民を煙に巻く科学と、漁民や現地住民被害者の実感をとりいれていく科学と、どうも二通りの科学があるように思えてなりません」と発言し、住民運動が作り出すものこそ科学なのだ、と言った。


僕らは現在、環境問題その他の社会的な問題について、市民・住民自身が調査すること(市民調査)を重視し、それをエンカレッジするしくみ作りを考えている。その点でも偉大な先駆者であった宇井さんから学ぶべきこと、まだまだ学び切れていないことは、たくさんある、と感じている。“現場を重視し、問題解決を重視し、さまざまな方法論を組み合わせた、市民・住民主体の適正学問”のために宇井さんの足跡に学ぶべきことはたくさんある。宇井さんが六〇年代に行った水俣調査の意味を僕らはまだ十分には消化しきれていないのではないか。宇井さんが六〇年代から始めた栃木の川の水質調査もまだ十分に検証しきれていないのではないか。宇井さんが行ったフィールドワークの意味、宇井さんが歴史を重視した意味、宇井さんが「住民が作る科学」「適正技術」を主張したことの意味を、僕らはもう少し考えつづける必要がある。