著作権、個人情報保護の趨勢に異議あり

高校生の演劇に、劇作家の作品が上演される場合、著作権料を要求される、という事態が報道されている。事態を受けて、高校では、著作権のある作品を上演することにきわめて慎重になっているとも報道されている。


一方、「個人情報保護のため」、学校のクラス名簿が配布されない、という事態が生じている。これは我が家の娘の学校でもそう。近頃では、行政が「個人情報保護」をいい名目に情報を出さない、ということも増えている。


これらの事態を僕は憂慮する。著作権や個人情報保護そのものがおかしいのではない。著作権や個人情報保護が固定的な制度になったことがおかしいのだ。「プライバシー」というのはきわめて社会的な産物で、何がプライバシーで何がプライバシーでないか、プライバシーは守られるべきものかどうか、は超歴史的に決まっているものではない。それを、国家が関与した固定的な制度にしてしまったところにおかしさがある。もちろん何らかの形で国家が法などの制度にする必要があるものはたくさんあるのだが、「プライバシー」というきわめて日常生起性の高いもの(日々の社会的な営みの中で構成されるもの)が、固定的な制度になると、やはり大きな社会的矛盾を生む。


著作権はもっと顕著だ。多くの人間が創造的な活動に参加し、どこからどこまでが誰の著作かがはっきりしない世の中で、商売の枠内のものをとくに著作として保護しようとすると、そこには、別の力学が働いてしまう。権利の囲い込み、著作と享受者の相互作用の断絶、などなど。権利もまた本来きわめて日常的な営みの中で社会的に作られるものだ。


「所有権」が絶対的なものとなってしまった近代の世界で、僕らはそのために、ずいぶん苦労してきたではないか。同じ轍をまた踏みたくない。