【20】ドナウ・デルタ

この九月、ルーマニアに行ってきた。ヨーロッパに行ったことがなく、しかもルーマニアと言えばコマネチとチャウシェスクしか知らなかった僕が、ルーマニアに行くことになった。


お目当ては世界遺産ドナウ・デルタ。ドイツ南部から東ヨーロッパを流れに流れ、最後黒海に注ぎ込むドナウ川。その河口に広大な(東京都と同じくらいの面積)湿地が広がっていて、それがドナウ・デルタだ。


それにしてもルーマニアは英語が通じない。でも、ルーマニア留学経験がある大学院生のH君に助けてもらいながら、何とかドナウ・デルタまでたどりついた。ドナウ・デルタの陸側の入り口であるトゥルチャという町に着くと、あとは船しかない。


船に乗った百人以上の客のうち、半分くらいが地元の人、半分くらいが観光客だった。観光客は、ルーマニア人の釣り人ばかり。世界遺産なんだし、ヨーロッパ各国は地続きなんだし、もっと外国からのツーリストがいるものだと思っていたら、全然いない。エコツアーはほとんどないようだ。その分、国内各地から釣り人がやってくる。ドナウ・デルタは魚の宝庫なのだ。釣り人たちは、民宿に泊まったり、キャンプを張ったりして、ビールを飲みながら、ゆっくりと釣りを楽しむ。


僕らの目当てはヨシ(葦)だった。宮城県の北上川河口地域でヨシの調査をしている僕らは、ヨシ好きが高じて、こうなりゃ世界のヨシを見てやろうやないか、ということになった。最近ヨシによる茅葺き屋根が金持ちのステータスとして人気だというヨーロッパ。そのヨーロッパのヨシ原はどこにあるのだ、と探すと、どうやら最大のヨシ原が広がるのはドナウ・デルタだということがわかった。たまたまH君がルーマニア語ができたので、じゃあ行こう、ということなった。


僕らも民宿(ペンシオーネという。日本のペンションにそっくり)に泊まり、ボートをチャーターして、ドナウ・デルタの水路めぐりをした。どこまでも広がるヨシ原、ヨシ原、ヨシ原。水路では、地元の人たちが魚を捕るための仕掛けをしている。網やカゴを使った素朴な漁業だ。そして、鳥。世界中の水鳥がここに集結しているんじゃないかと思うばかりの多様な鳥が、お互いの群れ同士からみあうかのように、乱舞している。鳥にとってここは天国に違いない。世界的に有名なのはここのモモイロペリカンだが、動物園で地上に立っているペリカンしか見たことがなかった僕らは、空高く群れをなして飛ぶペリカンを、ほう、と眺めた。


日本のように世界遺産だと言って大騒ぎすることがないのは好感が持てるが、しかし、世界遺産であることで、ルーマニア政府は、このドナウ・デルタの「自然を守る」義務を負い、政府直轄のドナウ・デルタ管理局を設けている。そのことは、地元の人たち、とくに漁師たちといくらかコンフリクトを生じているようだ。管理局の役人は、そのはざまで苦しんでいるようで、「(自然保護という)ヨーロッパ・スタンダードと地元の現実との間にはギャップがあり、それをどう埋めるかが難しい」と語ってくれた。


それはひとりドナウ・デルタの問題ではなく、今年EUに加盟したばかりのルーマニアがかかえるさまざまな問題も象徴しているようだった。急速に自由経済へ移行したルーマニアでは、たとえば僕らがドナウ・デルタで出会ったおじさんが言っていたような、「チャウシェスクの時代の方がよかった」、という意見が少なくないという。