死刑を今考えるということ ―森達也『死刑』から

死刑について考え、廃止論者になったのはトルストイ『復活』を読んでからだったと思う。もう30年も前の高校生時代だったから、『復活』の内容も忘れたし、どうやって死刑廃止論に至ったのかも忘れた。ただ、死刑廃止論は、当時の若者の間ではそれほど珍しくなかったと記憶している。冤罪問題ともからんでいた。


時代は変わり、死刑廃止論は圧倒的な劣勢に立っている。凶悪犯罪が増えたように見え(実際にはそんなに増えていないが)、犯罪被害者の声(「極刑を求めます」)が大きく取り上げられるようになり、死刑廃止論はじわじさと追い込まれている。


国家という法的な秩序のかたまりの中で生きている僕らにとって、この死刑を廃止するかどうかという問題は、社会の実に本質的な問題である。しかし、あまりちゃんと考えたくない。僕はそんな社会の気分を感じる。なにしろ、死刑廃止論者のはずの僕がそうなのだ。


森達也氏は、そこを突く。「あなたの問題なのだ」と森は突く。Mっ気があるのか、僕は、そこが心地よい。


森氏は、このとてつもない問題に対し、どこから攻めてよいか攻めあぐね、3年かかってこの本を書いたという。刑務所を訪ね、死刑の具体的な執行のしかたに迫り、知己の死刑囚や元死刑囚に話を聞く。見えない「死刑」を何とか見ようとする。知己の死刑囚は、驚くことに「死刑容認」の立場だった。森氏は、ゆらぐ。ぐらぐらにゆらぐ。


理屈の上では、森氏は、やはり死刑は廃止されるべきだ、という結論に達する。一つは、冤罪のリスクが現在でもなお大きすぎること。もう一つは、死刑が犯罪抑止になっていないということ。


しかし、それだけでは、どうも説得力がない。死刑の問題には多分にエモーショナルな問題があると森氏は気づく。エモーショナルな問題は、エモーショナルだから無視してよいというものではなく、むしろ死刑の問題の根幹にあるということに気づく。そして最後、理屈を超えたところで、森氏のテーゼが生まれる。


「僕は彼らを死なせたくない」

「人は人を殺す。でも人は人を救いたいとも思う。そう生まれついている」


死刑容認の気分が強くなってきたいまだからこそ、僕らはみな、森氏と同様に、死刑について考えなければならない。結論が出なくてもよいかもしれない。とにかく、死刑の問題が、僕ら自身の社会の根幹の問題であるということを認識するところから始めるしかないのかもしれない。


森達也, 2008, 『死刑』朝日出版社