【22】北海道の戦後開拓を調べる

「遊」でここ何年か「調査ゼミ」を開いている。市民が自分たちで調べる、ということの可能性を追求してみようという講座だ。とくにテーマを決めない年が続いたが、今年度(二〇〇七年度)は、「戦後開拓」をテーマに据えた。


「戦後開拓」をテーマにしたのは、前から北海道の戦後開拓が気になっていたからだ。「戦後開拓」とは、終戦直後、日本政府により、食糧難対策と失業者・戦災者・復員兵・農家二・三男対策とを兼ねる形で計画されたものであり、その結果、全国で二〇万世帯(一九六四年までの累計)が、「未開拓地」の「開拓」に従事することになった。北海道への戦後開拓は、累計四万五三六五戸(全国の約四分の一に当たる)。しかし、戦後開拓事業が終了して二年目の一九七一年段階で残っていたのは一万三三八〇戸。三分の二は離農したことになる。


明治以来、日本政府は、膨大な数の人間を文字通り動かしてきた。北海道への移民、植民地への移民、海外への移民。そのことの意味は何だったのか、それを最後の移民政策の一つである「戦後開拓」で考えてみたい、というのがあった。


六人の受講者を得て、調査ゼミはスタート。みなさん、熱心だった。まずは資料を読み、概要を把握してから、みんなで聞き取りに向かった。


江別市に世田谷部落というところがある。名前の通り、世田谷区からこの戦後開拓で移住してきた人たちの部落である。たまたま調査ゼミにこの世田谷部落出身の人が参加していたため、僕らは、一緒に世田谷部落へ出かけた。三人ほど、開拓を経験した方が集まってくださり、僕らは、話を聞いた。Tさんは、「移住直後は、たいへんだった。洪水で水がついたジャガイモを干して食べた。人間が食べるものではなかった」と語ってくれた。しかし、そんな悲惨な話だけではない。部落で団結して生きてきた歴史を、きのうのことのように語ってくれた。


もう一ヶ所、僕らは、やはり江別市の東野幌部落へ向かった。ここの戦後開拓は、道外からではなく、近隣からの入植である。Kさんは、もともと、やはり戦後開拓である新野幌部落(野幌森林公園の中にあった)で小作として働いていたが、一九六〇(昭和三五)年、今のところに入植した。「戦後開拓」でも最も遅い入植である。「爆薬で伐根しながら、開拓した。ここは泥炭地だったので、どこでも歩いたら湿気っている感じだった。自分の青春は、毎日毎日排水掘りだった」


同じ「戦後開拓」と言っても、地域により、また、個人により、経験がずいぶん違うということが分かってきた。まだまだ調べることはたくさんあるなあ。