「国の将来像」? 

自民党や民主党のマニフェストをチェックしたり「採点」したりということが行われている。その中で言われていることのは、自民・民主のマニフェストとも「国の将来像がない」ということ。


国の将来像?


たしかにわからないでもない。日本はどこへ向かうのか? 政府の役割は? 財政出動か財政緊縮か。社会福祉のあり方は? 新自由主義か社民主義か? 教育のあり方は? 中央と地方の関係は? そんなことをトータルに「国の将来像」として提示しろ、というのだろう。たしかにそんな全体的なイメージが欲しい、イメージが必要だという気持ちは、わからないでもない。


しかし、「国の」将来像、という言い方をしたとたんに、僕らは、何かを失ってしまう、と考えた方がよい。「国がつぶれる」「日本はどうなるんだ?」という言い方は人びとの日常でもよく使われる言い方だが(とくにオジさんたちが好んで使う)、なぜ主語が「国」なのか? なぜ「私たちの将来像」でないのか。「私たちの将来像」がまずあって、その中で、自治体の役割は何か、「市民社会」(という言葉はあまり好きではないですが)の役割は何か、中央政府の役割は何か、国際社会の役割は何か、とそんなふうに考えるべきだろう。


もう一つ、「将来像」という言葉のマジック。目標像を作りたいという“気分”は、どの国でも、どの社会でもあるだろう。“気分”はわかるが、それが有効な社会計画のあり方かどうかは、僕は議論の余地があると思う。順応的管理ではないが、あまり大きな長期の計画を立てない、という将来像のあり方もある。そもそも僕らの社会は、十分に複雑で、国際社会から小さなコミュニティ、家族まで、さまざまなレベルの社会が、別々の方向を見ながら動いている。「国家が将来像を指し示す」というクラシックな考え方は通用しにくい社会になっている。


いまや「国の将来像」は、具体的な政策というより、政治上の言説にすぎない、と考えておいた方がよいのかもしれない。