『開発と生活戦略の民族誌』にまつわる話【1】「開発」と「生活を組み立てる」

3月下旬に『開発と生活戦略の民族誌:ソロモン諸島アノケロ村の自然・移住・紛争』という本を新曜社から出します。今日から何回かに分けて、この本にまつわる思いを書いてみます。


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本を書くときにいちばん気にするのは、誰に向けて書くのか、ということ。


この本を本当に届けたい相手として想定したのは、「開発」関係の人たちだ。開発協力にたずさわる人、途上国の問題にたずさわる人、開発学を学ぶ人、など。開発協力にたずさわる良質な部分の人たちへ向けて、地域を見る目、発展を考える視点を、自分なりに提示したかった。


たとえば、コミュニティ・ベースト(community-based)という言葉はすでにグローバルスタンダードな価値になっていると言ってもいいだろう。コミュニティ・ベースト・デベロプメント、コミュニティ・ベースト・リソース・マネジメント、などなど。上からの開発ではなく、コミュニティに根ざした開発を、というわけだ。それは大枠で間違っているわけでないない。しかし、と僕は思う。確かにそれは、より民衆寄りでより民主主義的だろう。しかし、そのうたい文句はときに権力作用として働かないだろうか。


「コミュニティ」を押しつけてはならない。そもそも「コミュニティ」は存在するのか。途上国の人たちはよく動く(先進国の人たちも)。個人がいて、コミュニティがあって、国があって、という単純な同心円ではない。さまざまな人のつながりがあり、ネットワークがある。そのあり方は地域によって違うだろう。無前提に「コミュニティ」を想定しない方がよい。


それでは、私たちはどこに注目したらよいのだろうか。


「生活を組み立てる」というのがこの本のキーコンセプトの一つだ。書名では「生活戦略」という言葉を使ったが、本当は書名にも「生活を組み立てる」という言葉を使いたかったくらいだ。


人びとは、さまざまなの「資源」を組み合わせて生きている。自然資源、人間関係、社会的制度、政府のサービス、などなどの資源があり、それらを組み合わせ、また、状況に応じて組み替え、生き延びている。そのことに注目することが大事ではないか。そのリアリティの中でどう「開発・発展」を考えればよいか。そのことをこの本では一生懸命考えた。


僕の思いは届くだろうか。