『開発と生活戦略の民族誌』にまつわる話【2】「民族誌」をめぐって

「生活を組み立てる」という途上国の人びとの生活のリアリティに沿った視点をこの本の中心に置いてみた。人々は、自然資源、人間関係、社会的制度、政府のサービス、などなどの資源があり、それらを組み合わせ、また、状況に応じて組み替え、生き延びている。


その組み合わせ方は、国によっても、地域によっても、村によっても、個人・世帯によっても違う。なぜなら、所与の条件が違うから。所与の条件の多くは、その地域固有の歴史であり、地域の歴史の中で蓄積されてきたさまざまな資源だ。


というわけで、それを明らかにするのは、事例研究になる。地域固有の歴史を具体的に掘り返し、組み立てなおしてみるという事例研究になる。


その方法論は、フィールドワークを中心に、理論を組み立てていくという、僕がこれまで親しんできた環境社会学や地域研究の方法論だ。本書のタイトルが「民族誌」になっているのはそういうことだ。


当初この本に「民族誌」を冠するつもりはなかった。「民族誌」は人類学や民俗学の人たちが冠する権利を持っていて、僕にはないと思っていた。しかし編集者からの提案で「民族誌」を名乗ることになったとき、僕はそれもありだと思った。


民族誌(エスノグラフィー)とは何なのか、というのはなかなかおもしろい問題だ。民族誌とは、ある対象の人々や地域について、参与観察や聞き取り調査を中心的な方法としながら、その全体像を描くやり方、ととりあえず言えるだろう。そのことが、単なる記述をおのずと超えて、いろいろな問題提起をする、ということは、多くの民族誌が教えてくれたところでもある。


この本でも、民族誌でありつつ、「半栽培」「所有」「重層的コモンズ」といったことについていくらかつっこんで議論している。そこでは、他の地域の事例も出している。その意味では民族誌の幅をはみ出しているかもしれないが、それが民族誌だとも言える。


「単なる記述」はありえない。僕のこの本も、現場での見聞だけでは成り立たない。日本で考えていること、他の場所で考えたこと、さまざまなことが響き合って「記述」が生まれる。