【39】被ばくという不確実性との憂鬱なたたかい

放射性物質が大量にまき散らされた。実は「前代未聞」ではない。核実験が繰り返された一九六〇年代に日本でもかなりの量の放射性物質が降っている。それはともかく、今回の現実を前に、「安全だ」を繰り返す御用学者たちは論外として、そのリスクをどう考えるのか、なかなか憂鬱な話だ。この間、ネットを中心に市民の間で、さまざまなリスク・コミュニケーション(危険についての議論・対話)が繰り広げられたが、そこで、さまざまな問題が浮かびあがってきた。


リスク・コミュニケーションは疫学を中心とした研究蓄積をもとにしたリスク論的な視点に頼らざるをえない。リスク論とは、社会のさまざまなリスク(事故、病気、災害)について、それぞれがどのくらい危険なのかを研究の蓄積から量的に評価し、政策的にどのリスクの軽減に力を注いだらよいか判断しようという考え方。前提には、現代の生活においてゼロ・リスクはありえないという認識がある。この考え方は、大筋においては間違っていない。


しかし、今回、リスク論的な冷たい(?)論理と人びとの具体的な生活とがどうつながるべきか、がなかなか見えない。ICRP(国際放射線防護委員会)の基準だと「1ミリシーベルトの被ばくで1万人に0・5人のガン発症」となる。科学者の中のある種の国際的な合意形成の中でこの基準が決められているとき、それを市民はどう受け止めて行動すべきだろうか。もちろんICRPは原発推進寄りだとして、より厳しい評価をするECRR(欧州放射線リスク委員会)があり、そこが出している基準もある。


しかし、いずれにしても、そこでとられているのは、確率論的な評価である。研究蓄積がある程度あるとはいえ、すべてが分かっているわけではないし、研究結果には相当な幅がある(場合によっては一桁も二桁も違っている)。そこで、統計学を駆使して、このくらいの確率でこういうことが言えるのではないか、ということを積み上げていき(つまりは推測に推測を重ねて)、だいたいこういう基準でよいのではないか(しかし研究が進めばそれが変わる可能性は当然ある)、ということになる。だからこそ、ICRPとECRRでは数字がずいぶん違う。


さらに、今回の放射性物質のまき散らしの場合、ホットスポット(とくに放射性物質の濃度が濃いところ)が存在しているであろうことや観測値が点であって面的でないということから、不確実性はますます高く、その結果、確率論的なものに加え、推測やシミュレーションでしか議論できない、ややこしい事態になっている。


こうした不確実性の中のリスクにどう向き合うかということについて、これまでのおおよその解答は、「一人ひとりの市民がそうしたデータを踏まえて判断し、その上で行動すべし」あるいは「データをもとに討議の上で合意形成する」というものだった。しかし、今回はどうもそれが通用しない。一人ひとりがデータを踏まえて判断し行動するには、あまりに不確実性が高く、身に迫ったものを判断するにはあまりに考えなければ行けない要素が多い。シーベルトとベクレルの違いをみんなちゃんと理解するのはやはり難しいし、理解できても、みんながICRPやECRRの基準値について、その結果だけでなく、それが出されてきた背景まで考えて、「合理的に」判断することは無理だろうし、実際に出てくる観測値について批判的に検討を加えることも無理だろう。さらに、「1ミリシーベルトの被ばくで1万人に0・5人のガン発症」という確率論的なリスク評価は、今回生活者の不安や判断とは相当ずれていると言わざるをえない。私自身、反原発運動の中でいくらか放射線リスクについて勉強していた者として、現実のリスクをどう考えたらよいか、また、他人にリスクをどう伝えたらよいか、たいへん悩んだ。


そもそも、確率論的なリスク評価は、合意形成の参考データとしては機能すると思われるが、個人の行動の判断基準としては機能しないのではないか。もっと言うと、このような不確実性に一人ひとりが向き合うことは可能だろうか、また、それはよいことだろうか。不確実性に一人ひとりの判断で合理的に向き合えない人はどうすればよいだろうか。しかし一方で、リスク評価を全く馬鹿馬鹿しいものとして無視することはどう考えても現実的ではない。ならばどうすべきだろうか。一つの解答は、市民の立場でリスク・コミュケーションを行う中間的な組織やセミ専門家の必要性ということになると思うし、今回もそうした人びとが活躍している(原子力資料情報室、市民科学研究室、分散型エネルギー研究所、サイエンス・メディア・センターなどなど)。しかし、それだけでよいのかどうか、よくわからない。


そもそもこんな無駄な不確実性との格闘を個人に強いる社会はもちろんよい社会とは言えず、だからこそ、原発や核燃料サイクルの諸事業は廃止すべきである。しかし、一方で目の前の原発、そして放射性物資のばらまきの前に、私たちはどういう戦略を練るべきだろうか。早く戻りたいと言っている避難区域の福島の人たちとどう向き合うべきだろうか。


さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』129号(2011年5月号)掲載