【40】高木仁三郎さんと新しい専門性

こんなときだから、高木仁三郎さんについて書こう。


八〇年代半ば、僕は、自主講座(反核パシフィックセンター東京)というところで活動していた。東京の文京区に小さなビルがあって、その一~三階がトライプリントという印刷会社(自主講座の人たちが作った会社だった)で、その上に「自主講座分室」というスペースがあった。そこに僕は出入りしていた。チェルノブイリ原発事故後は僕らも反原発運動に大きな力を注ぐようになって、高木仁三郎さんのところ(原子力資料情報室)にも何かと通うようになった。それは集会の打ち合わせであったり、何かの企画の話し合いであったりした。


それより前の一九八一年、高木さんは友人(現在茨城大学にいる河野直践さん)が始めた東京大学の自主ゼミで学生相手に講演をし、それが『いま、普段着の科学者として考えること』という手書きの冊子にまとめられた。僕はその講演を聞きそびれたが、冊子を友人から手に入れて読んだ。高木さんの死後、それは著作集に収められ初めて世に出ることになる(著作集第七巻)。のちにはよく聞いたが、おそらくかなり早い段階での高木さんの自分史語りだった。今読み返すとそれは、まとまりのある話というより、高木さんがどう考えて生きてきたかをかなり率直に語ったものだった。


「政治・経済の側に取り込まれるのではなくて、いわば人間の側に科学技術を引き寄せる、そういう立場として、市民と、科学技術との間に僕ら自身が存在するということしかないのではないか」。「旧来の専門性という事とは、かなり違って、数式をうまくいじるという形とは違ってくるけれども、いわば新しい、いい専門性というようなものを自分でも磨いていかなくてはならない」



いつだったか、原子力資料情報室で食品の放射線を図る測定器を導入してそれを試験的に動かしている高木さんを見たことがある。僕らにはそのときの高木さんがいつもより少しテンションが高かったよう気がして、一緒に行った友人と「高木さん、やっぱりこういうの好きなんだなあ」と笑ったのを覚えている。


生活クラブからの委託で原発事故時の放射能のシミュレーションの仕事を原子力資料情報室で請け負い、僕も少しだけそのお手伝いをしたとき、高木さんは、「原子力資料情報室の仕事は本来こういうもんなんだよなあ」と言いながら、ドイツにあるらしい市民の研究機関の名を挙げた。そういう例を知っていたから、チェルノブイリ後、さっとスタッフを増やして(そういえば僕も誘われたのだった)、研究NPO(当時はそんな言葉はなかったけれど)としての体制を着実に作りあげた。


そういえば、高木さんはどこかで「自分は徐々に反原発になっていった」といった内容のことを書いている。最初から反原発というより、反対運動の住民たちとのやりとりの中で、住民の思いと科学を往復しながら、反原発というポジションを獲得していった。チェルノブイリ原発事故の食品放射能汚染の問題の際も、市民からの多様な質問に答えて中で「原子力資料情報室は相当にきたえられた」と語っている。市民との相互作用の中で「新しい、いい専門性」を獲得していったということだろう。そして、本来「専門」ではない事故論、自然論などを、まさに新しい専門家、のちに高木さんが使う言葉で言うと「市民科学者」として深めていった。


高木さんがやりたかったことの一部は、NGO/NPOや学問の世界で半ば常識化し、また半ば制度化もされてきたが、実現されていないこともまた多い。


高木さんについて話したいことはまだたくさんあるけれど、今日はここまで。