結城登美雄『東北を歩く―小さな村の希望を旅する』 

東北を歩いていると、結城登美雄さんの影に出会うことがある。まだお会いしたことのない結城さんの名前が現場でよく出るのだ。たいてい、結城さんと話しあってこんなことをしようと考えている、とか、結城さんのこんないい話を聞いた、とか、そういう話だ。自分たちが前へ向かうその後押しをしてくれる人物として結城登美雄という名が登場する。


水俣の吉本哲郎さんとほぼ同時に「地元学」を提唱し、東北各地のまちづくりをしかける人。しかしそんな仕掛け人としての結城さんはこの本には姿を現さない。東北の村々を歩き、そこに住む人々から学ぶ、本来の結城登美雄その人が登場する。


もちろん「まちづくりの成功例」的な話も出てくる。町中の家庭料理が一堂に会してわが町の文化を誇りを取り戻す「食の文化祭」(宮城県宮崎町[現加美町])、地域の中の農家と豆腐屋と消費者をつなぎ直す「豆腐引換券」(宮城県丸森町)、高校生たちのチャレンジショップ(岩手県水沢市[現奥州市水沢区])などなど。しかしこれらはこの本の中であまり中心に置かれていない。あくまで主役は、老人たちを中心とした普通の生活の話。その人々の営みの上にこそ、現在のまちづくりの試みがある、と筆者は暗に主張している。


山あいの小さな田んぼを耕し続ける人(山形県大江町)、海でフノリやイワノリを採集する老婦人たち(宮城県北上町)、出稼ぎに出た男たちが祭りで必ず戻ってきていた話(秋田県大曲市)、などなど、縷々として続く人々に営みがこの本の中心だ。


筆者は宮城県高清水町で戦後開拓を指導した人物に尋ねる。「将来を信じる力とは何でしょうか」。そう。それは私たちが今聞きたい言葉である。「ややしばらくあって『段取りをとって自然の力を待つこと、かな』と返ってきた。(中略)その先の暮らしのために備える仕事を段取りという。そして段取りがうまくいっていれば、心はいつも安心だという。心の安心はゆとりを生み、そのゆとりの心は、おのずから楽しみを求める」


そういえば、この本に取り上げられる村々には、戦後開拓の集落が少なくない。終戦直後、食糧増産のかけ声のもと、国策として条件の悪いところに農家の二三男や満州帰りの人たちが開拓に入った。その多くは離村したが、残った人々の営みから筆者は多く示唆を得る。


古くからある「伝統的な村」をただ賞賛するのではない、村の歴史的なダイナミズムを見すえる筆者の目の確かさがここにも現れる。


旅の途中で筆者は農業を始める。自分で農業を始めることで、見えてくるものも変わってくる。農業を始めてから中古農機具フェアに出る。そこで農民と機械との関係を実態から考察する。老農夫にとって頼れるのは機械か、という考察。


筆者の目は「働くこと」の意味にも注がれる。宮城県白石市小原で筆者が出会ったふじのおばあちゃん。明治生まれの半沢ふじのさんは、二〇歳で婿を迎えて以来七〇年間、家族が食べる野菜のほとんどを女手ひとつで作ってきた。「畑はいいよ、また種を播けば、おてんとさんが必ず助けてくれる。ここは私の仕事場だもの」。戦前に四人の子供を亡くしたふじのさんの話を聞き、筆者は書く。「東北の土地に刻まれた食の物語。それは必ずしも生きる喜びに満ちたものばかりではない。ならば山里の美しい畑とは何か。それはひとりの老女の、悲しみを超えて今日も耕される畑のことである」


祭りも単に伝統文化としては見ない。宮城県北上町追波地区(現石巻市)の釣石(ふりがな/つりいし)神社大祭。大人たちがしかけ、それに応えた若者たちが五年ぶりの祭りをとりしきる。ほとんどが初めての経験。子供たちも参加する。祭りの中でみな成長する。「祭りが人を育て、人が村を支えていく」。


村のダイナミズム。働くことの意味。祭りの中の希望。


この追波地区は、今回の津波で家屋がほぼ全滅した。亡くなった人も多い。他にも、この本に収められた村々のいくつかは、このたびの津波で壊滅的な打撃を受けた。


だからこそ、今この本は読まれなければならない。津波の前の村をふりかえるためではなく、声高に叫ばれる上からの復興ではない下からの希望を語るために。


結城登美雄『東北を歩く―小さな村の希望を旅する』(新宿書房; 増補新版, 2011年)


(この書評は、アジア太平洋資料センターPARC『オルタ』2011年9-10月号に掲載したもののです →http://www.parc-jp.org/alter/