【43】台湾先住民族瞥見

さっぽろ自由学校「遊」はずっと台湾とのお付き合いがあるのに、僕は台湾へ行ったことがなかった。台中にある中興大学で開かれた自然環境にかかわる研究ワークショップに招かれ、昨年11月、初めて台湾に足を踏み入れることになった。


ワークショップのあと、静宜大学南島民族研究センターの林 益仁さんが、先住民族の村に車で連れて行ってくれることになった。林さんはワークショップで「欅木事件」という事件の報告をしていた。この事件、国有林の倒木を持ち帰った先住民(スマングス)が盗伐で逮捕され、裁判闘争の結果無罪を勝ち取った話。日本の小繋事件を思わせる。ただし「欅木事件」はごく最近の事件。


林さんが連れて行ってくれたのは、清流という村。日本統治時代の名前は川中島。三本の川に挟まれているからその名がついた。先住民族の言葉ではグルーハン。「清流」は中華民国が与えた名前。ここは霧社事件後、生き残った先住民族が集められて移住させられた村だ。霧社事件とは、一九三〇年に先住民族セデックが日本に対して仕掛けた蜂起。日本側は徹底弾圧し、セデックの七〇〇人ほどが死亡ないし自殺したと言われる(自殺がたいへん多かった)。


ちょうど台湾で霧社事件を扱うハリウッドばりの映画「セデック・バレ」がヒットしていて、この清流もにわかに観光地化していた。私たちが訪れている間にも、観光客を乗せたバスが何台も着いた。


清流で出会った先住民族のKさんに話を聞く。Kさんの祖父が二四歳、祖母が二一歳の時に霧社事件があり、祖父と祖母は事件後ここ「川中島」に移住させられ、そこで知り合って結婚した。邱さんが霧社事件について知ったのは祖父祖母や親からではなく、大学生になってからだった。祖父、祖母は80歳を越えてから事件についてようやくほんの少しだけ話してくれたという。


旅には、霧社近くの村出身の先住民族のIさんが同行してくれた。その村でIさんのお母さんにお会いすると、八一歳のお母さんはていねいな日本語で応対してくれた。お母さんは、本来の名前と日本名と中国名の三つをもつ。Iさんたちは、政府の補助で昔の住居を復元している。地面を掘って木と石で作った家。屋根はススキ。隣に雑穀の倉庫。こちらは高床式。復元には、老人たちの記憶と、戦前の日本人による研究が使われたという。


ホテルに帰って僕は「原住民族電視台」というTVチャンネルを見る。台湾で二〇〇五年から始まった先住民族専門チャンネルだ。言葉は中国語と先住民族の諸語。ニュースや芸能が織り交ぜられ、言葉が分からない僕にもおもしろい。ちなみに隣のチャンネルは「客家TV」だった。