【51】村井吉敬さんとの旅

村井吉敬さんと最初に出会ったのがいつだったか、はっきりとは思い出せない。大学三年か、四年か。いずれにしても三〇年以上前のこと。しかし、『小さな民からの発想――顔のない豊かさを問う』という村井さんの本が、当時の僕のお気に入りの本だったことは覚えている。この本は、インドネシア・西ジャワの話があると思えば、いつのまにか高知県西土佐村の話に切り替わり、その生き生きとした記述の中で、社会のあり方、開発のあり方が深く問われていく、そんな魅力的な本だった。


『小さな民からの発想』に感動した僕は、上智大学の村井ゼミにもぐりこませてもらった。本当に村井ゼミで勉強したかったのか、ただ女子学生の多い華やかなキャンパスにもぐりこみたかっただけなのか、今となっては記憶も定かでない。覚えているのは、当時上智大学の内外でアジアにかかわるさまざまな学生の活動が繰り広げられていて、そうした学生たちにとって村井さんはスターであり、庇護者でもあったことだ。


やがて僕は、鶴見良行さんに誘われてエビ研究会に加えてもらい、さらには当時僕が活動していた自主講座のつながりでも、村井さんといろいろ行動を共にすることになる。村井さんがODA批判の急先鋒に立ったとき、僕もオセアニアのODAを批判的に調べ、「同志」としての面目を保った。一九九一年には、ODAの現状を調べるため、村井さんと初めてのパプアニューギニアも歩いた。調査研究のやり方、運動のしかた、旅のしかた、どこをとっても村井さんは僕の偉大なロールモデルだった。


大学時代探検部に属していた村井さんは、旅する人だった。その旅のいくつかに僕も同行させてもらった。僕は旅慣れていない情けない学生だったから、村井さんやその仲間の人たちにいつも迷惑をかけていた。おもしろい旅はいくつもあったが、スマトラを何人かで一緒に旅したのは一九九〇年だったか。村井さんが日本から合流するのを待てず先に出発した僕らに、村井さんはある小さな町で追いついてきた。携帯電話なんかない時代だ。どうやって村井さんがそんな町で追いついて僕らを見つけたのだったか。今となってはそれも思い出せない。


一九八八年、チャーターした小さな船で東インドネシアを旅するという無茶な旅で、島に寄港するたび、村井さんは「隊長」としてそれぞれの地元の当局と交渉するというやっかいな仕事を行い、上陸すると、うっぷんを晴らすかのように、「同志」の新妻昭夫さんとともに、蝶々を追いかけていた。


民衆の足を使って旅する。そこから、伝えるべきことを見つけていく。そして必要ならばアクションを起こす。村井さんの流儀はずっと変わらなかった。


僕自身はいつのころからか、定点観測の方を重視するようになって旅は少なくなったが、村井さんは旅を続けた。晩年はインドネシアのパプア地域に入れ込み、そこを若い仲間と一緒に歩きつづけた。最後の本は『パプア――森と海と人びと』(めこん)だった。


村井さん、ありがとうございました。