【52】石巻の復興とともに(その5)神楽の復活

家族と一緒に石巻に出かけた。家族を連れて行くのは、震災後初めてだった。目的は五月四日の「大室南部神楽復活祭」に参加すること。


私たちが大室集落に到着したとき、復活祭はまだ始まっていなかったが、すでに多くの人が集まっていた。少し前まで主催者たちが、「どのくらい集まるだろうか」と不安がっていたのは、明らかに杞憂だった。復活祭の場所は、津波で流された集落跡。そこに国の支援で建てられた仮設の作業テント(養殖ワカメの作業などに普段は使われている)が会場だ。


大室集落はほぼすべての家が津波で流されてしまった。大室の人たちは現在仮設住宅などに住んでいる。避難所生活から仮設生活に移ったのが二〇一一年七月。高台集団移転の話し合いは進んで、元の集落近くに隣の集落と一緒に移転することが決まっている。元の集落近くの高台だ。しかし、なかなかそれは進まない。いつ自宅を建てることができるのか。


そんな中、集落の三十代を中心とする若手が、神楽の復活祭を準備した。彼らは、小学生のとき「子ども神楽」にいそしんだ世代だ。当時、子どもたちが言い出して、小学生十人で始めた子ども神楽。集落内の師匠、佐藤清次さんの指導を受けた。清次さんの自宅が稽古場だった。清次さんは今回の震災で亡くなった。


「実は震災前に、この世代で集まったときに、神楽もう一度やろうという話が出ていました」。復活祭の仕掛け人佐藤満利(みつとし)さんは言う。神楽はこの地区で十年くらい演じられていなかった。「震災後も神楽の復活はみんな心の中で思ってはいたんだけれど、誰も言い出せなくて。練習する場所もないし。高台移転が決まってからかなあ、とか。サリーが後押ししてくれたからだよ」。サリーとは、震災後この地区に入ったNPO法人パルシックの日方里砂さん(現在は復興応援隊)のこと。地域に入り込み、そのニーズを掘り起こしながら、現在まで復興支援の活動を続けている。その日方さんがうながしたことが、復活祭につながった。


今回、神楽の舞台は、今回岩手県一関市下大籠から借りた。大室の南部神楽は、もともとこの下大籠の津田清人という人物が大室に来て神楽を教えてことに始まる。その下大籠から今回舞台を借りることができたのだ。その他、助成や寄付など、多くの外部からの支援があって復活祭は成立した。


復活祭の演目がはじまり、やんやの喝采。日々練習を重ねてきた成果だ。集落の関係者、支援者、メディア、さまざまな人が集まり、屋台もいくつも出て、にぎわいを見せる。フェイスブックやラジオで宣伝したが、あとは口コミで集まった人たちだ。


この日は、復興を進める大室集落の人たちにとって、かけがえのない一日となった。