【57】宇井純さんが遺した文章

三月、沖縄に行く機会があったので、前から行きたかった大里村(沖縄県南城市)・金城農産の汚水処理施設を訪れた。この施設は、宇井純さん(一九三二~二〇〇六年)が手がけた「沖縄型・回分式酸化溝」である。養豚の排水を安価な方法で効率よく処理し、その上ずみ液を肥料として畑で利用するしくみ。金城農産は現在養豚をやめているので、この汚水処理施設は隣の農家の養豚の汚水を処理している。上ずみ液は現在も金城農産で使っている。


知らない方のために復習すると、宇井純さんは、水俣病を始めとする多くの公害問題について、被害者・住民の立場に立ち、徹底した現場主義で調査研究し、発言し、また行動した人。東京大学助手時代の一九七〇年に開講して一五年間続けた自主講座「公害原論」は、当時、公害研究・反公害運動のネットワークの要として、各地の運動に大きな影響力をもった。


宇井さんは若いときに水俣病に出会い、その現実から出発して行動を始めた。晩年の二〇〇六年、自分の行動を振り返ってこう語っている。「現場主義ということでしょうね。しょっちゅう水俣に行き、そして患者に会い、患者の話を聞いて、自分の行動を選択してきた。あの患者を前にしたら、うそはつけないですよね」。


水俣病をめぐって御用学者たちがどうしようもない役割を演じているのを見て、宇井さんは既存の科学のあり方に痛烈な批判を加えた。「公正なる第三者、すなわち決して被害者の立場には立とうとしない人々に、水俣病の認識が根本的にできないことが明らかではないか。こんなわかり切った事実を前にして、それでもなお公正を口にしうる者があるならば、私はそれは人間とは思えない」(一九七二年)。「むしろ、素人のほうが正確な判断ができる。なまじ、玄人が、知識を振回しますと、知識がじゃまをして答えが出ないということがありますけれども、公害問題では、特に、被害者あるいは住民の常識が、一番正直な答えである、という場合がほとんどであります」(一九七三年)。


青少年向けに書いた『キミよ歩いて考えろ』(一九七九年)という本に宇井さんが書いた次の一見平易な文章に、僕は宇井さんの姿勢が深く刻まれていると思う。


「いまの教育では、あまり重視されていない、観察力が、これからは、たいせつになるだろう。自然と、社会のかすかなへんかも、みのがさない。観察力は、それをうけとめる感性と、ともに成長する。(中略)わかれ道は、感性の豊かさがあるか否か、他人のよろこびや、くるしみを、自分の身に感じ、じぶんのものと、できるかどうかにある。(中略)観察力をやしない、感性を豊かにするためにも、そして、それ以上に、じぶんの学問をひろげるためにも、まず、行動することが必要である」


そして、そうした行動を経て、宇井さんがたどりついた技術的解の一つが、冒頭の汚水処理施設だった(宇井さんはもともと化学研究者)。地域に根ざし、簡単な技術でできる施設。


二〇〇六年に宇井さんは亡くなったが、宇井純さんが遺した多くの文章がある。その一つ一つが、また読み返されるべき文章だと感じた僕は、宇井純著作集を企画した。宇井さんはあちこち新聞やらミニコミやらにたくさん書いていたので(数えると一一〇〇本!)、それらから一一八本を厳選し、それがようやくこの六月、『宇井純セレクション』全三巻として刊行されることになった。


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宇井純セレクション

第一巻 原点としての水俣病

第二巻 公害に第三者はない

第三巻 加害者からの出発

新泉社 各三〇二四円(税込) 

編=藤林泰・宮内泰介・友澤悠季

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