【58】ブータンを歩いてみた

五月から六月にかけて、ブータンを訪れた。例の「国民総幸福量(GNH)」の王国だ。


国際民族生物学会という学会参加のための渡航だった。学会そのものも、世界各地の先住民族が多数参加するという楽しい学会だったが、やはりブータンという国に魅せられた二週間だった。約三千メートルの高地のため、最初はすぐに息切れしたが、そのうちに慣れた。国のすみずみまで英語が通じるにもびっくりした(小学校の授業は英語で行なわれている)。


ブータンは、落ち着きのある美しい国だった。


僕が滞在したのは、ブータン中部のブムタン地方。もともとは畑作地域で、ソバ、ジャガイモ、小麦、大麦、トウガラシ、リンゴ、そして酪農、馬産などが中心だが、近年「温暖化のせいで」(本当か?)稲作が可能になり、盛んに米が作られている。ブータンはヒマラヤの南部にあたり、平地が少なく、多くの畑は斜面にある。さまざまな畑と牧草地とがパッチワーク状に並び、ブータン様式の民家が点在するさまは、たいへん美しい。周辺の山はヒマラヤゴヨウというマツに覆われている。近年ではこのマツ山はコミュニティ・フォレストとして各集落の管理・利用にゆだねられている。


商品作物は、農家によって、牛乳やチーズだったり、ジャガイモだったり、トウガラシだったり。遠くまで売りに行く人もいれば(隣国インドまで売りに行くことも珍しくないようだ)、近くの市場で売る人もいるが、意外に近隣で個人的に売る(あるいは個人的に買いに来る人がいる)というのが多いようだ。


学会後のフィールドトリップで三六〇〇メートルの山のトレッキングに挑戦した僕は、そこでガイドのベマさんに会う。ベマさんは、農家だが、ときどきこうやってトレッキングのガイドをやっている。トレッキングの途中、ベマさんの家に寄ったが、ちょうど大きな牛舎を建設しているところだった。農業を少し拡張しながら、ときどきガイドもやって、生活を成り立たせていこうと考えている。たぶん、ブータンにはたくさんのベマさんがいるのだろう。これまでの生活を基盤に、時代に合わせて、ゆっくりと「発展」していこうという人びと。(それにしても、ベマさんの家もまた、他の多くのブータンの農家同様、ブータン様式の家で、たいへん大きい)


ところで、旅行前にいくつかのブータン本を読んだが、出色だったのは、やはりというべきか、意外にもと言うべきか、五五年前に書かれた中尾佐助『秘境ブータン』(岩波現代文庫)だった。そこで描かれているブータンの人と自然は、基本的に今もあまり変わることがない。違うのは、たくさんの「町」ができたことと、道路が整備されたこと。京都大学探検部出身の民族植物学者らしく、至るところに人と自然についての炯眼がちりばめられていて、ブータン滞在中もつねに参照しながら歩いた。こんな確かな目でブータンを歩けたら、もっと楽しいだろうに。