【63】奄美の塩づくりとソテツ再生

あちこち歩いていると、ときに「すごいなあ」という人に出会う。

 

三月に奄美大島で出会った和田昭穂(ふりがな/あきほ)さん(昭和七年生まれ。男性)は、まさにそんな一人。奄美生まれなのに大阪弁が混じる、その語りは、始まるとなかなか止まらない。 

 

話を聞いた場所は、奄美大島笠利市打田原(ふりがな/うったばる)の塩づくり小屋。和田さんが大坂から故郷の奄美に帰ってきて始めたのがこの塩づくりだった。なぜ塩だったのか。「奄美は戦後しばらくアメリカの統治下にありましたから、日本の専売法が適用にならなかったのです。そこで奄美ではみんな塩づくりを始めました。流れてきたドラム缶を使って塩を炊いたのですよ。うちでも作りました。それを名瀬まで歩いて行って売りました。その記憶があったのです」。

 

塩の収益は、集落の施設の運営に充てている。地域活動のための事業だ。塩を焚く燃料は、当初流木を使った。「私が十年前にここに帰ってきたころ、海岸は流木やゴミであふれていました。何が悪いのかというと海上保安庁です」。なぜ海上保安庁が悪いのかは話が長いので省略。「で、その流木を燃やすことになったのですが、ただ燃やすのはもったいないと感じて、昔作っていた塩を作ることを思いつきました」。

 

塩を商品として売るだけでなく、観光客や子供たち相手に塩づくり体験も行う。

 

和田さんは、若いころ奄美で代用教員をやり、三十五歳のときに家庭の事情で大阪へ出て教員を続け、二〇〇五年に故郷打田原に戻ってきた。

 

大坂時代にも、いくつもの活動にかかわっていた。居住地近くで大規模住宅開発が始まろうとしたときには、説明会で明らかになった事業者側の有無を言わせぬ態度に腹が立ち、運動を始める。

 

「大坂府堺市の美木多(ふりがな/みきた)というところです。バブルがはじける前でした。おかしな開発計画でしたが、すでに土地を売った農家もあり、反対運動というよりは、条件闘争をしました。自然散策という形でのデモンストレーションも繰り返し行いました。奄美の人間はね、薩摩藩の圧政時代からのレジスタンスの伝統があるのです。そのレジスタンスの血が騒いだのです」。

 

バブルがはじけ、開発計画は消えた。運動は、その後「美木多の自然とまちづくりを考える会」に衣替えし、今も続いているという。

 

和田さんが現在取り組むのは、ソテツの商品化。これは地域の女性たちの仕事づくりでもあり、地域づくりでもある。ソテツの実(「ナリ」という)からでんぷんを作り、それを使ったうどんを開発したり、カステラを開発したりしている。「きょらさん三浜(ふりがな/みはま)」という女性グループを立ち上げて、そこが担う。

 

なぜソテツでんぷんなのか。「この地域では、戦時中、米を供出させられ、ソテツを食べてしのいだのです。戦後は今度は金がなくて米を売らざるをえなかった。やはりソテツに助けられました。大阪に出ていたとき、盆と正月に奄美出身者で同窓会をやっていたが、そのときにいつもナリガイ(ソテツの実のでんぷんでつくるお粥)を食べました。奄美に帰ってくるとソテツが無視されているのを見て、ソテツを復活させようと考えました」

 

 

まだまだ続く和田さんの話。あまりの話のおもしろさに、僕らは奄美滞在の一週間の間に、三回も和田さんに会いに行った。それでも話は終わらない。若いころにかかわった復帰運動についても、今度詳しく聞かなくては。