【64】ローマ散策

家族でローマを旅した。

 

アパートメントの一室を一週間借り(ホテル検索サイトで見つけた)、地下鉄とバスを駆使して、ローマを歩き回った。 

 

観光客がひしめく旧市街を歩いていると、その街路のすきまから、巨大な石の建造物が見えてくる。パンテオンだ。近づくとその巨大さに驚く。高さ四十三メートル。

 

一世紀に建てられたものを、二世紀に皇帝ハドリアヌスが再建したもの。万の神々をまつる神殿である。それが二〇〇〇年存在しつづけたのは、ローマのコンクリート技術が優れていたのと、ローマ帝国崩壊後キリスト教会の聖堂として利用しつづけられたからという。

 

現代の町の中に、こんな巨大な石の建造物がそのままの形で残り、市民も観光客も自由に出入りできる空間として存在していることにさらに驚く。中にはラファエロの墓もあり、古代と中世、ルネサンス期、そして現代が奇跡のように共存している。

 

それはローマの町全体に言える。古代の遺跡の断片と思われるものが、そのまま現在の建物の一部とされているのをいくつも見つけた。

 

ローマに行く前に、ローマやローマ帝国に関する本を読みあさった(その中には大学時代の恩師の一人弓削達先生の著作もあった。本を通してのうれしい再会だった)。帝国時代に栄えたローマが、その後縮小し、教皇の町として細々と存在してたということも知った。ルネサンス期に若干繁栄を取り戻し、さらにイタリア「統一」後の首都とされてから急速に人口が増えて現在に至っている、ということも正直知らなかった。

 

今日私たち旅人が目にするのは、帝国時代の遺物、ルネサンス期の美術や教会が中心だが、「さびれて」いた時代のローマにはどんな人がどんな思いで生活していたのだろう、と空想は広がる。そして現在のローマ人は、毎日毎日観光客がひしめいているこの町で何を思いながら暮らしているのだろう(世界の言語を聞きたければローマに来るとよい。ローマの旅は、世界中からの観光客を観察する旅でもあった)。

 

どの街角も美しく、また歴史の積み重ねを感じざるをえない。それはもちろん世界の町のどこでもそうであるはずなのだが、ローマは特別なのだろうか。二三〇年前、ローマに着いたゲーテは「そうだ、私はようやくにして世界の首都に到着したのだ」と感慨深げに書き、そして「ローマは一個の世界であって、それに通暁するのは、まず数年を必要とする。だから、通り一遍の見物をして立ち去っていく旅行者を見ると、かえって羨ましいくらいだ」と書いた(「イタリア紀行」一七八六年、河島英明『ローマ散策』岩波新書より)。ローマを旅で訪れる人たちのまなざしの蓄積もまた分厚く、それがまた今のローマを作り出しているのかもしれない。