【34】「親子ラジオ」とかつお節に生きる

今年の三月一七日、お世話になっていた沖縄県池間島の譜久村健(ふくむら・けん)さんが亡くなったとの報を受けた。譜久村健さんは、宮古島の北に位置する小さな島、池間島で、長く「親子ラジオ」という有線放送を担ってきた。一軒一軒からお金を集め、島の人たちにとってかけがえのない地域のメディアの役割を果たしてきた。僕は池間島で調査を始めてから譜久村さんのお世話になりっぱなしだった。


譜久村さんが亡くなる前日、僕は理由もなく体調が悪く、一日中白昼夢を見ていた。譜久村さんが死の淵をさまよっていたのが、遠く僕の体にも何か響いたのか。


僕が譜久村さんにお世話になったのは、親子ラジオについてではなく、かつお節についてだった。この小さな島の多くの人が戦前、そして戦後も、「南洋」にカツオを獲りに行っていた。そのことにとても興味をそそられて、僕は、たくさんの人から「南洋」話を聞かせてもらうことになった。そのときいつも譜久村さんのお世話になった。譜久村さんが、それじゃああの人、それじゃああの人、と話を聞く人の選定をしてくれ、そして連れていってくれた。僕が何を知りたいのか、何を聞きたいのかを推測して、いつも的確な人選をしてくれた。


譜久村さん自身、一九三九(昭和一四)年から一九四四(昭和一九)年にかけての五年間、故郷池間島を離れ、ミクロネシアのトラック(チューク)諸島で生活をしている。カツオ漁に従事したのだが、まだ若かった譜久村さんは、飯炊きから始め、機関士の見習いもした。当時トラック諸島は、多くの沖縄の人たちがかつお節産業に従事していて、ちょっとしたバブルだった。町には多くの飲み屋もあり、譜久村さんは、他の青年たちと一緒によく遊んだという。とはいえ、カツオ漁をやっていたのは最初の二年間。一九四一(昭和一六)年、他の男たちとともに軍に徴用され(漁船も一緒に徴用された)、以降は軍のために働かされる。カピンガマランギ島という同じミクロネシアの離島に水上基地を造る仕事もした。


一九四四年、引き揚げた譜久村さんは、東京の知り合いの会社で働く。一九四五年の東京大空襲に遭う。「危ないから逃げろと言うが、逃げる場所がない。みんな燃えている。強行突破して、線路沿いに逃げた」。譜久村さんは一九四四年二月のトラック大空襲にも遭っているから、大空襲は二度目になる。


戦後池間島に戻ってきた譜久村さんは、かつお節工場で働きながら、「親子ラジオ」を立ち上げる。親子ラジオとは、戦後、沖縄や奄美の各地に米軍の資金援助で設置されたコミュニティ有線放送で、NHK放送をそのまま流したり、地域のニュースを流したりしていた。池間島では、かつお節華やかなりしころ、この親子ラジオから譜久村さんが呼びかけるアナウンスで、工場に人が集まってきた。他地域の親子ラジオが次々に廃止になる中、譜久村さんは、この親子ラジオを続けた。僕は池間島の多くの人びとから、この親子ラジオが果たしてきた大切な役割について聞かされた。


親子ラジオは沖縄の中でも徐々になくなっていき、沖縄で唯一残った親子ラジオの担い手として、譜久村さんは、晩年、NHKやら女性セブンやらに何度も取り上げられ、一躍時の人ともなった。


譜久村さんがいなかったら、僕はあんなに池間島に通わなかっただろう。人と人、地域と地域が結びつくとき、そこには必ずこういう人がいる。