【46】<ひだから>の聞き書き

初めて日高町千栄地区を訪れたのは二〇〇八年。山あいのその集落で住民のみなさんに最初聞いた話が本当におもしろく、これはもっと聞きたいと思った。縁あってその後この地区とお付き合いが始まる。


この地区の魅力はなんと言っても「人」。その人たちの魅力ある語りを残したいと思い、学生たちと聞き書き集に取り組んだ。その結果、『聞き書き・千栄に生きる』と題する六〇ページの冊子ができあがった。


矢野モモヨさん(昭和六年生)の語り。「私ね、一一歳の時に母を亡くしたの。中学校卒業してから岩倉木工所に仕事に行って働いたの。それから、他の兄弟たちと一緒に畑仕事もしたのよ。兄弟は昔から仲が良くて、よくみんなで川へ行って魚をつかんだね。糸にミミズを通して、川におろすと、カジカがたくさんついてくるから、それを捕まえて焼いて食べるの。キュウリもみなんかに使うとすっごくおいしいの。土用の丑の日は、数珠のようにミミズを糸につけてね、カジカがわあっと寄ってきたらそれをバケツへ入れてね、たくさん釣ったよ」


大正一三年生まれの山城二男(ふりがな・ふたお)さんは、農業をしながら林業にもたずさわってきた。「四〇歳くらいから岩倉って製材工場で土場巻きをやってくれって言われて。トラックで丸太が土場まで運ばれてきたら、丸太をトビを使って転がして、それを積むんです。そして、丸太の製材をするのに皮をむいて、レールに一本か二本積んで木工所の中まで運んでいく。春先はね、むきやすいんです。傷つけてやったら、ピローってむけて。だから、まさかり使って手でむくんです。あれはちょっと誰もかれも簡単にできない。ほんとのコツでやらなかったら、動かないんだよね」。林業はこの地の基幹産業だった。しかし現在日高町の林業は衰退した。


道垣内(ふりがな・どがいど)恭子さん(昭和六年生)は、子供のとき苦労している。「子どもの頃からいろいろしてみた。そのときの産業はほとんど農業と林業だね。だから、お父さんが林業に行ったら、お母さんと子ども同士で畑を作った。私六年生、一三歳の歳に、父親は怪我して仕事で右手をなくしたのさ。だから本当に二〇歳ぐらいまでは苦労した。父の片手として働いたのさ。長女だからね」。


みんなで苦労してきたそんな千栄地区の老人会は、現在とても活発。老人会の前会長・佐藤敬治さん(昭和三年生)、「千栄にはパークゴルフ場があって、そこで毎日年寄り集まって、一時間半くらいやって、帰ってきたら今度は草取りやったり、いろいろ農家の仕事してね。冬は百人一首やるんだ。林のばあさんっていうんだけどね、今は施設に入っちゃったけど九五歳になるばあさんが、それはそれは詠むのが上手でね。それを聞くのが楽しみなんだ。老人会の会員は五〇人くらいいてね。カラオケは毎週第一火曜日って決まってるの」。


苦労の話、楽しかった話、友だちの話、それらが全部千栄の歴史、日高の宝<ひだから>。道垣内さんはこう語ってくれた。「千栄以外に住んでみたいと思ったことない。やっぱりここが一番住みやすいような気がするね。隣近所みんな兄弟みたいなもんだし。不便でも何だかここが一番よかった気がするよ」


(『聞き書き・千栄に生きる』は、宮内泰介(miyauch@let.hokudai.ac.jp)まで)