【66】母の戦争

私の母(八一歳)は、一九三四(昭和九)年一一月、愛媛県松山市の市街地に生まれた。家は下駄の製造卸を営んでいて、一時はたいへん繁盛していたという。

 

その母が一〇歳のときに、松山大空襲が起きている。一九四五(昭和二〇)年七月二六日、終戦の二〇日前である。

 

母の戦争の話は、小さいころから断片的には聞いていたが、まとまって聞いたことはなかった。この正月、母の家に戻ったときに、ちゃんと聞いておこうと考えた。

 

大空襲の日、母の家族(母親と兄弟合わせて四人)は、たまたま郊外の志津川という地区(松山市北部)に出かけていた。母親(私の祖母)の姉(母のおば)が嫁いだ家があって、そこに遊びに行っていたのだ。その日はそこに泊まって、翌日吉藤地区(さらに北部の農村地域)の「くみとりさん」のところに桃を買いに行く予定だった。当時吉藤地区の農家が母の家に肥料として屎尿をもらいに来ていたそうで、子供たちはその人のことを「くみとりさん」と呼んでいた。

 

その日の深夜一一時、突如米軍による空襲が始まる。記録によると、サイパンからの米軍一二八機が一万四〇〇〇発の焼夷弾を松山の市街地にぶち込んだ。松山の市街地は一夜で焦土と化した(『松山市史第三巻』)。

 

たまたま郊外の志津川にいた母とその家族は、命拾いをしたことになる。おじに言われてすぐさま防空壕に入った母は、空襲の様子をその目では見ていない。

 

ただ、母の家族のうち、姉だけは家に残っていた。姉は、文字通り火の海をくぐって志津川まで逃げてきた。家にあったいくつもの位牌を大風呂敷に包み、体にくくりつけて逃げてきたという。持ってきたものはそれだけ、あとはすべて燃えてしまった。

 

隣の家の老女はこの空襲で亡くなった。その隣の男性は全身大やけどをくらった。『松山市史』によれば、この空襲による被害は、罹災戸数一万四三〇〇戸、死者・行方不明者二五九名にのぼる。

 

母の家族はそのまま志津川のおばの家に居候を続けたが、終戦後一ヶ月くらい経ったとき、母は焼けた家のところまで見に行った。何もなかった。「かばんもない。筆入れもないなあ」というのが小学生だった母のそのときの感想だったという。同時に「でももう空襲はないからいいなあ」とも思った。

 

母の兄弟のうち、兄は唯一の男手だったが、戦争時、ビルマ戦線に送られていた。終戦後兄の生死は不明だった。父親はもともと病弱で、終戦の二ヶ月ほど前に病気で亡くなっている。集落で「○○さんが復員しました」という放送があるたびに、母親は、兄の名前がなくてがっかりしていたという。

 

すでに下駄屋は廃業していた(借金の保証人になって失敗)。終戦後、母親と姉は、たまたま残っていた着物をもって「買い出し」に出かけ、郊外の農村で米やサツマイモなどと交換してもらう生活だった。着物は、焼ける前の生家から「荷物の疎開」と称して、志津川のおばの家に預けていたものだった。当時大八車を引いてそうした「荷物の疎開」を請け負う人たちがいた。

 

兄が帰ってきたのは終戦一年後。復員して生家に戻ると家はなく、そこに母たちが立てていた立て札を見て、志津川まで来た。兄が送られたビルマ戦線は激戦地だったが、幸い兄の部隊の上官が「逃げろ、逃げろ」と退却を行う方針だったので、部隊全員が無事帰ってきたのだという。母の一族では、もう一人、いちばん下の叔父(母親の弟)が兵隊として満州へ行っていて、戦後シベリアに抑留されるという経験をしている。抑留後、松山に戻ってくるが、抑留経験がたたったのか、数年後に亡くなる。

 

母の一家は、一九四八(昭和二三)年ごろ、志津川のおばのところでの居候から、市街地近くの市営住宅に移った。『松山市史』によるとこのころ急ピッチで市営住宅が数多く建てられており、母の一家もその一つに入ったことになる(市営住宅は住宅需要に追いつかず、倍率はいつも高かったというから母たちは運がよかったのか)。

 

 そこから母の戦後が始まる。

 

(さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』2016年1月号)