【67】小別沢の歴史

札幌市西区小別沢。大都市札幌の中で、ぽつんと存在する小さな農村だ。「遊」と縁が深い永田まさゆきさん・温子さん夫妻が農的生活を送っているところでもある。

 

僕はその永田さんとのつきあいで、小別沢にはよく行くのだが、そこにどんな人が住んでいるのか、実はよく知らなかった。 

 

その小別沢で農家のみなさんの聞き取りを学生たちと始めたら、これがおもしろい。へえ、と思うことだらけだった。 

 

たとえば、小別沢から歩いて円山まで野菜を売りに行っていたこと。「作った野菜は円山朝市に売りに行っていました。朝二時に馬で行って、帰ってくるのは朝八時でしたね。朝ご飯を食べてそのあと午前中から仕事をして、夕方には収穫作業をしていました。夏の間はずっと二、三時間しか寝ないような生活が続きました」(Mさん)。「円山朝市へはね、野菜を馬に乗っけて運びました。馬も長く歩けばおなかがすくので、デントコーンや燕麦を積んで食べさせながら歩きました。朝市では、場所を三万円くらいで借りて、直接八百屋さんたちに売っていました」(Kさん)。「お客さんは八百屋さんだけでなかったね。前注文で三つ葉を買ってそれを籠で背負って小樽に持っていくおばあさんたちもいたね」(Yさん)。

 

Iは、子供のころ親について円山市場に行った思い出を語ってくれた。「夜中の十二時か一時に馬で出かけて、着くのは二時くらいでした。それで市場から家に帰ってくるのは八時過ぎ。学校にはどうしても遅れる。小別沢から盤渓小学校まで、小走りでも三十分以上はかかるからね。校長に『こんなに遅刻したら卒業できないぞ』と言われて、私は『卒業証書要らねえ』って答えました」。

 

円山朝市は一八九三(明示二三)年ころ始まったと言われる。最初は南一条西十丁目付近だったが、一九二二(大正一一)年には西二十四丁目に移動した。しかし戦争で実質閉鎖となり、戦後の一九四九(昭和二四)年に復活したときには場所が変わり、北七条二十五丁目と北六条西二十四丁目の隣接する二カ所になった(のち中央卸売市場に移行)(『円山百年史』)。小別沢の人たちが「円山朝市」と言っているのは、主にこの通称「円山北町朝市」のことのようだ。

 

それにしても、農家は忙しかった。農繁期の忙しさを少しでも緩和するために、農協ぐるみで取り組んだのが青森からの若い女性を季節労働者として雇うことだった(当時は琴似町農協)。一九五六(昭和三一)年から毎年一〇~五〇人規模で受け入れた(『琴似町農協史』)。小別沢はこれを積極的に受け入れた地区の一つだ。「小別沢では季節労働者として来た女性と結婚した人が何人もいます」(Mさん)。実際私たちが話を聞いた女性たちの何人もが青森(野辺地地域)からそうやって小別沢に来てそのままここで結婚した人たちだった。

 

人も地域もダイナミックに動いているなあ。

 

(さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』2016年5月号)