【68】八重子おばあちゃんの日記

八重子おばあちゃんの日記、というブログがある(http://kuresakibunko.hateblo.jp/)。

 

誰かに教えられて最初このブログを見たとき、僕はびっくりした。一つは、この日記の主が自分がずっとかかわっている宮城の石巻市北上町の人だったことだが、もう一つは、この日記の記述がなぜか心ゆさぶられるものだったことだ。

 

日記の主、八重子は一九五二(昭和二七)年に亡くなっている。三三歳の若さだった。死因は出産。四人目の子供を産んだとき、出産事故で亡くなった。小指(こざし)という北上町の漁業集落でその生涯を過ごした。

 

日記は、一九四九(昭和二十四)年十二月より亡くなる四日前までの二年余り書かれている。ほぼ毎日だ。その孫にあたるS・Kさんが、その日記を一日一日ていねいにブログに上げていった。

 

ある日の日記はこんな記述だ。

 

昭和二十四年十二月十八日土曜 晴

朝からとても良い天気でした。雪がとけはじめた。四五寸降った。

子供達の着物を裁った。

きなこ、まめご[きなこと同じ意味]をついた。まめごは夜九時半すぎまでかかつた。

同年十二月十九日日曜 晴

今日は日曜日なのですすはきをしました。正子と二人でふきかたをした[拭き掃除をした]。

夕方はさつぱりとかたついて気持ちよくごはんを食べました。風呂をたてました[沸かしました]。

 

文章はまっすぐで、けれんみがない。それだけに当時の生活がくっきりと浮かび上がってくる。

 

昭和二十四年十二月一日水曜 うす曇

今日は朝から餅のお仕度で忙しかった。

一日中、かたつけ方をした。

せと物のせり売が来た。小皿を買った。正子と、おかあさんが石巻へ行った。

たらあみ船は波のためやすんだ。飯野川のおぢさんが「モト」をもってきた。三つ買った。

 

「モト」はどぶろくの酒母(酵母菌の培養液)。「せと物のせり売」は当時瀬戸物産地からやってきて街頭販売をしていたという。日記には他にも紙売りや木綿売りが登場する。「たらあみ船」は八重子の家がもっていた、タラなどさまざまな魚種を捕獲する漁船。

 

日記には知らない言葉が数多く出てくる。

 

昭和二十六年八月三日月曜 晴

朝は寺の上の赤木をとった。風が吹いて夕方はさき山のねずみがへしをとった。

毎年二眠まではねずみかへしで育てるが、今年は新葉がなくてしまのちをまぜた。

 

読んでさっぽりわからなかった「赤木」「ねずみがえし」「しまのち」といった言葉をあとで地域の人に教えてもらった。いずれも桑の品種だった。養蚕が盛んだったころの日記なのだ。蚕を順調に育てるため、複数の品種の桑を育て、蚕の成長過程に合わせてそれを食べさせたという。「二眠」はその成長段階の名前。「さき山」は地名。

 

この日記は地域の宝だ。そう思った私は現在、ブログのS・Kさんや仲間たちとともに、この日記を冊子化しようと準備を進めている。わからない言葉には一つ一つ注をつける。そのため地域の年配の方々への聞きとりが必要だ。これがまた楽しい。

 

ところで日記に頻出する地名の一つに「あななぐち」というものがある。八重子たちの畑があったところだ。

 

昭和二十五年五月五日火曜 曇

朝から豆撒きをした。ひる前であななぐちは終わった。

男達は海へ行って若布(ふりがな/わかめ)をとった。

 

東日本大震災で集落がほぼ壊滅した小指集落は、のち、この「あななぐち」に集団移転することを決めた。移転地の工事は終わり、今そこには多くの新しい家が建っている。小指集落は、八重子たちが仕事をしていた土地の上で、新しい出発を迎えている。

 

 

 

さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』2016年6月号