【69】カムチャッカへの出稼ぎ

この連載で何度も登場している宮城の石巻市北上町。そのいちばん東の端の集落は小滝(こたき)という。四〇世帯ほどの小さな集落だ。少し高台に集落があって、そのため、東日本大震災でも幸いにほとんど被害を受けなかった(少し海岸近くにあった一軒は全壊)。

 

この集落に住む大正一五(一九二六)年生まれの遠藤栄吾さんは、震災前に何度かお話をうかがっていた。大正生まれの漁師さんだから、このあたりの海のことを熟知している。震災以降お会いする機会がなかったが、先日久しぶりにお会いした。

 

 

遠藤さんは若いときに宮城県内の大謀網(ふりがな/だいぼうあみ)という大きな定置網に出稼ぎに出ていたと聞いていたから、その話をもう少し聞こうと思った。すると、遠藤さん、「その前にカムチャッカに行っていました」。え? カムチャッカ? 「小学校が終わって高等科を半分で退学し、昭和一六年にロシア領のカムチャッカで定置網の仕事をしました」

 

震災前にお話をうかがっていたときには、カムチャッカのカの字も出なかった。もちろんこちらの聞き方が悪いのだ。やはり、話は一度聞いただけではわからない。で、カムチャッカ?

 

これまで、北洋漁業の船に乗っていた、という話はあちこちの漁師さんから聞いたことがあった。しかし、それらはたいてい船に乗るという出稼ぎだ。北洋で定置網、というのは初めて聞いた。

 

「日露会社の人が募集していたのに応募したのです。函館まで汽車で行って、そこから一二〇〇トンの貨物船に乗って行きました。ちょうど台風に遭い、一三日かけてようやくカムチャッカに到着しました。ロシア領の南チェスカです。大きな定置網を作り、サケをとります。毎日陸からダンベ船と呼ばれた船に乗って行き、一日に何回も網を起こします。自分はそのダンベ船に乗っていましたが、運搬する人、船を陸に揚げる人、加工の仕事をする人など、一ケ統だけで四〇〇人以上の人がいました。そのほとんどは工場で働いていました。工場はサケを塩蔵したり缶詰にしたりです。一つの定置網ごとに工場があり、当時のカムチャッカにはそうした定置網がずらっと横に並んでいたのです。隣の定置網とは五キロくらい離れていました」

 

聞いたことがなかった日本の会社によるロシア領での定置網。しかもとてつもなく大規模。でも知らなかったのは僕だけのようで、札幌に戻ってきてから調べてみると、文献はいろいろあった。「露領漁業」というらしい。それでも当時の漁業労働者たちを描いた文献は少なかった。その中でも、秋田の出版社が出した『北洋の出稼ぎ』(一九八五年)は、秋田から露領漁業などに出かけた人たちの聞き書きで、たいへんすぐれた記録だった(著者は小学校の先生)。

 

で、遠藤さんの話のつづき。

 

「寝る時間はほとんどありませんでした。夜も明るいところですから。それで体調を悪くする人も多かったのです。

 

行ったのはそのときだけで、三ヶ月だけでしたが、結構稼ぎました。そのおかげで戦後、ここで人よりも早く動力船を手に入れることができたのです」

 

その後遠藤さんは、ほとんど小滝集落を出ることなく、八五歳まで漁師を続けた。

 

どの人の人生もおもしろい。

 

(さっぽろ自由学校「遊」『ゆうひろば』2017年2月号)