【91】世界遺産の集落から

九月、三年ぶりに奄美大島へ行った。奄美は、徳之島、沖縄本島のやんばる、それに西表島と合わせて、昨年、世界自然遺産に登録された。

 

その世界自然遺産のエリアのすぐそばにある西仲間という集落に通い、継続して話を聞いている。今回は短い滞在だったけれど、六名の方に合計十四時間のとても濃密な聞き取りを行なうことができた。私たちが聞くのは、主にその人の生活史。中でも、地域の自然とのかかわり、それに生業だ。

 

今回お話を聞いた最高齢は、九二歳の作田キヨ子さん。作田さんにはこれまで合計四回も聞いているから、もう聞くことはないかも、と思っていたら、とんでもない、どんどん話が出てくる。九〇年も生きているのだから当たり前かもしれないけど、ほんとうに話の泉だ。

 

作田さんは、この西仲間集落で生まれ、九十年間、ずっとここで生活してきた。若いとき、外に出たいと思って、友だちのお母さんの紹介で、名瀬(奄美大島の中心地)の薬局に働きに出たが、わずか一週間で親に連れ戻された。当時の奄美ではまだ稲作が盛んに行なわれていて(現在はほぼ消滅)、作田さんは両親と一緒に田んぼの仕事に励んだ。

 

田んぼでは、竹(奄美でブラデーとよばれるマダケ)を細かくして田んぼの肥料していた。田植えや稲刈りは、ユイタバ(結束)と呼ばれる共同作業で行なわれた。集落には川からの用水がはりめぐらされ、そこから田んぼに水がそそがれていた。「用水路ではイモや野菜も洗っていましたね」。用水は同時に、サトウキビから砂糖をしぼるサタヤドリ(製糖小屋)の水車にも水を供給していた。サトウキビ栽培は奄美大島の主要産業だったが、西仲間では稲作よりも前に消滅した。

 

作田さんは、一九七八年から、農業との兼業で、コンクリート製品製造会社にも働きに出た。さらには一九八五年ごろ、みかん栽培も新規に始めた。みかん栽培は、当時政策的に推奨されたものである。一六年働いた会社をやめたあとは、農業一本となった。

 

そして九二歳の今も、毎日畑に出ている。「毎年毎年の作物を作ることはやめません。とにかく家にじっとしているのが嫌いなんです。あまり多くはできないけれど、少しずつやればいいと思っています。農作業が大好きだから」。何年か前までは島らっきょの塩漬けを名瀬の青果市場に出していた。

 

作田さんの歴史は、奄美の歴史だ。世界遺産は、もっと作田さんのような住民たちの生活を反映したものであってほしいと思う。

 

作田さんに続いてお話しを聞いた別の女性は、山仕事を長くしてきた人だったが、はっきりと「世界遺産は好きではない」と語った。

 

作田さんは今でも、畑に入るときは、両親の教えに従って、「ととがなし、ととがなし」(「尊い、ありがたい」の意)と拝んでから入る。

 

人びとの生活と自然保護とをどう結びつけていけばよいだろうか。その一助になるかどうかわからないが、作田さんたち西仲間の人びとの生活誌を冊子にして残そうと考えている。