【92】森本孝さんの「あるくみるきく」生き方

二〇二二年二月二四日、ロシアがウクライナへの侵攻を始めた同じ日、私の大切な友人である森本孝(ふりがな・たかし)さん(一九四五年生まれ)が亡くなった。感情を大きく揺さぶられる日になった。

 

森本孝さんは、日本中の漁村を歩き、そして、書いた人だ。

 

日本中を歩いた民俗学者、宮本常一が一九六六年に立ち上げた「日本観光文化研究所」。立命館大学探検部出身の森本さんはそこに、誘われるまま二五歳のときに加わった。日本観光文化研究所は、宮本常一を慕う若い人たちが集まって、一人ひとりが日本中を歩く、という在野の研究所だった。そして彼らが書いた文章を載せた『あるくみるきく』という雑誌を発行した。旅費は出たが、給料は出なかった。

宮本常一にうながされ、森本さんは日本中の伝統的な漁船(和船)を訪ねて歩くことになった。一九七六年に下北半島を歩いたときの森本さんの文章にこんなのがある。

 

図面をとっておこうと舟置場の方にもどると、小学生くらいの子供が磯舟をおろしているところであった。普通の磯舟にくらべるとかなり小さい。子供用の磯舟なのだろう。見ていると巧みに車(ふりがな・くるま)ガイを漕いでいる。車ガイというのは要するにオール式に漕ぐのである。このように小さな時から、海に親しんでいなければ駄目なんだろうなと思いながら舟のスケッチにとりかかった。(森本『舟と港のある風景』)

 

こんなふうに、舟のスケッチを続けながら、歩き、聞き、そしてときに地元の人の家に泊めてもらい、森本さんは旅をつづけた。主著『舟と港のある風景』には、漁村の人びとに向ける森本さんの温かい目と、資料も読み込みながら冷静に歴史的な分析をすすめる姿勢が見事に表現されている。「二人の子供を抱え生活にあえぎつつも旅を続け」た結果だった。集めた膨大な漁船や漁具は、最終的に、国立民族学博物館(大阪)と国立歴史民俗博物館(千葉)に納められた。

 

宮本の死後、森本さんは鶴見良行に出会い、一九八八年には、鶴見さんや村井吉敬さんらと、東インドネシアの木造船の旅に同船する。私が親しくなったもこの船の上だった。

 

その後森本さんは、JICAの専門家として、途上国の漁業・漁村振興のコンサルティング業務にたずさわった。日本の漁村を歩いた経験、「あるくみるきく」の技法が、海外の漁村でも通用することを認識する旅でもあったようだ。

 

その後、二〇〇〇年に下関の水産大学校に職を得たのだが、わずか二年で辞めて、また海外の仕事にもどった。大学というところに何の希望も見いだせなかったようだ。

 

がんにかかって、短い余命を告げられた森本さんは、しかし、その後もしぶとく生きた。旅には出られなかったが、恩師宮本常一の資料をまとめ、『宮本常一と民俗学』という本も書き下ろした。「がんと向き合う日々」という長編のがんレポートが友人たちに送られてきたのは、がん宣告から五年目だった。歩く・見る・聞くを体現した人生だった。

 

(参考)福田晴子『宮本常一の旅学-観文研の旅人たち』