【93】中頓別の生活史を聞く

昨年七月、道北の中頓別町で、学生たちと一緒に、高齢者の方々のお話を聞く機会を得た。九人の話し手は、昭和五年生まれの人が最年長で、最年少は昭和18年生まれだった。聞いたのは、それぞれが生きてきた歴史。そのインタビューをもとに、ただいま聞き書きの冊子を作成中だ。

 

話を聞いた一人、Mさん(女性)は、樺太(サハリン)生まれだった。ソ連との国境近くの敷香(しっか)という町で生まれ育った。十三歳のとき、ソ連侵攻を前に列車と船を乗り継いで北海道に引き揚げた。叔父さんがいた中頓別に住み着みつくことになったが、そこからずっと働きづめで、「貧乏のどん底」の生活を送らざるをえなかった。

生活の苦労は多くの人から語られた。Nさん(男性)は、「子どものころに遊んだ記憶はないなあ」と語ってくれた。小学校のときから馬で畑起こしをしていた。「子どもだから馬にもなめられて、前に進まない。だから俺はプラウの手を離して前に行って、馬をたたいて歩かせようとするんだけれど、変な方向に馬が歩いて、変な方向に馬が歩いてプラウが倒れ、また最初からやり直し」。でも、「馬が好きだった」とNさんはふり返る。

 

このNさん、その後、親のあとを継いで酪農業を経営するが、国の規模拡大政策に乗らず、あえて小規模経営を貫き通した。「昔は具合が悪くて自分で動けなくなった動物がいれば、隣近所から人を呼んできて手伝ってもらい、床ずれができないように向きを変えてやった。そうやって隣近所、仲間たちで支え合ってきたのに、規模拡大ということになると、誰か辞めないかと思ってしまうことになる。それにはどうもなじめなかった」。

 

Nさんの話に限らず、地域の中での助け合いの記憶がたくさん語られたのはとても印象的だった。隣近所、仕事関係の仲間、同級生、そういう人たちの存在がやはり大きい。

 

Tさん(男性)は、戦後、小学校の先生にお願いして青年会で「夜学」を開いた経験を語ってくれた。「青年会では、夜学を主体にしながら奉仕作業を主に考えたね。困っている家の手助けに行ったり、馬車がはまってしまう道へ青年が行って、石を入れたりして穴を埋めて道をつくったとか」。

 

そんな助け合いの歴史は今も生きている。牛乳屋をやっていたKさん(女性)は、最近自宅に卓球台を置いて、近所の人と卓球を始めた。「温泉に行く無料バスが家の近くに来るから近所の人と一緒に行ってね。帰ってきてからそのまま卓球やろうってね」。手作りの地域サロンだ。

 

小さな町の小さな歴史。そこから学ぶことはとても大きい、と私は思う。