カツカツ研のはじまりと目的


■わたしたちがカツオとかつお節を追いかけ始めたわけ


「カツオ・かつお節研究会」はひょんなことから始まった。 


私は、家中茂さん(現カツカツ研メンバー)に「おもしろそうだよ」と教えてもらって、あまり深く考えずに、沖縄県池間島の戦前の移民たちの聞き取りを始めた。1995年のことだった。この小さな島の多くの島民が、男も女も、戦前、ミクロネシア(ポナペ、トラック)やボルネオへ移住し、カツオ漁やかつお節作りに従事していた話を聞いて、ちょっとびっくりした。戦前ミクロネシアやボルネオへ行った男たちの多くは、戦後今度はニューギニアやソロモン諸島へカツオ漁に出かけていた。日本の近代の歴史とかつお節が、沖縄の離島を巻き込む形でつながっている。これは面白そうだ。 


一緒にヤシ研究会をやった藤林泰さん(現カツカツ研メンバー)に、電話で「かつお節研究会」をやりましょう、と私は言った。藤林さんの答えは、「僕もそれを考えていた」という意外なものだった。 


ちょうど同じころ(1994年)、藤林泰さんは、ふらりと訪れた北スラウェシのビトゥン港で出合ったカツオ漁船の船長から聞いた話に触発され、かつお節に興味を覚えていたのだ。藤林さんによると、「このところ倍々ゲームだ」と語ってくれた広島県竹原市出身の船長は、8人のフィリピン人船員を使い、『きしん丸』というかつての船名を白く塗りつぶして『KISIN』と書き換えた船を操り、東インドネシア海域から枕崎まで満載のカツオをピストン輸送していた。藤林さんは、この話と、その頃急増していた「本格的カツオだし」のCMとがどこかでつながるのかも知れない、という感触をもったのである。 


さっそく私たち2人は、「かつお節研究会」の構想を、ああでもない、こうでもない、と夢想しながら話し合い、頃合いを見計らって、周辺の人々に呼びかけた。 


「周辺の人々」というのは、主に、故・鶴見良行さんのまわりにいた者たちである。『バナナと日本人』、『ナマコの眼』で知られる鶴見良行さんを中心に、私たちは、エビ研究会(1982~1988)、ヤシ研究会(1988~1994)という共同研究会をもった(その成果は、村井吉敬『エビと日本人』岩波新書、村井吉敬・鶴見良行編『エビの向こうにアジアが見える』学陽書房、宮内泰介『エビと食卓の現代史』同文舘、鶴見良行・宮内泰介編『ヤシの実のアジア学』コモンズなどに著された)。モノを通じて日本とアジア・太平洋の関係を探ろうという私たちの模索の延長に本研究がある。さらに、私たちの「海」への関心、それに日本の私たちの日常生活や文化への強い関心が、かつお節という素材を私たちに選ばせた。 


鶴見良行さんを中心に、私たちは、市民のための市民の研究を目指した。鶴見さんが1994年に亡くなったあと、その遺志をついで、そうした共同研究を続けたかった。ヤシ研を一緒に担った友人たちだけでなく、鶴見の周りにいて、海に関心をもっていた人たちなどに声をかけた。予想外に多くの人が集まった。


■かつお節と日本の「南進」


  かつお節は日本の伝統的な食材の1つである一方、江戸末期以降、「高級品」として都市を中心に大きく消費量を伸ばした商品である。それにともない、明治期以降、日本各地でかつお節の大量生産を目指した殖産興業が図られ、さらに、台湾、南洋群島(トラック、ポナペなど)、ボルネオなどで、かつお節製造を目的とする植民活動が繰り広げられる(1938年には「南洋節」が全かつお節生産の4分の1を占めた)など、かつお節は、近代日本の歴史の中で、多くの地域と多くの人々を巻き込んでいった。政府(中央政府、地方政府、植民地政府)、企業家、商人、漁民などさまざまな群像がかつお節をめぐってダイナミックに動いた。 


戦後、かつお節消費はますます伸び、かつお削り節(そしてその小口パック)、かつお節を含んだ調味料などに裾野を広げながら、さらにその消費を伸ばしてきた。そしてそれは、生産点においては、新たなカツオ漁場の開発、さらにはカツオの開発輸入をもたらし、そして現在では、(まだ数量的には少ないが)かつお節そのものの開発輸入も始まっている。同時に、国内においては、かつお節生産地の淘汰、大手メーカーによる垂直統合化といった再編も進んでいる。 


現在(1997年)、日本では年間332千トンのカツオが消費され、そのうち182千トンがかつお節になる。消費されるカツオのうち、312千トンは「国内生産」だが、その大部分は、日本の近海ではなく、赤道近くで獲れたものである。インドネシアやソロモン諸島、フィリピンを始めとする輸入も63千トンあり(一方「輸出」が43千トンある)、また、かつお節の輸入も2.5千トンあり、その数は年々増加している。回遊するカツオをめぐってヒトもめぐる。かつおは自らの力でフィリピン沖から三陸まで回遊しているが、それとは別の近代的なルートで、インドネシア近海から人間の手によって日本へも「回遊」してくるのである。 


私たちは、かつお節生産、そしてその原料生産であるカツオ漁を調べることを通じて、私たちの日常生活の向こう側に広がる世界を探ってみたいと考えた。空間的な広がりだけでなく、歴史的な広がりも重視し、近代日本の歴史でかつお節がもった意味、それが今日の構造にどうつながっているかを考えたい。それは私たちがその上に立っている生産-消費の構造を歴史的に問い直してみる作業でもある。さらに、アジア太平洋の人々と共存できる、新しい水産資源管理のあり方も同時に考えたい。 

 

(宮内泰介)